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活動報告

ザンビア研修(2014年度)のご報告


[写真1]コッパーベルト大学内の未来共生プログラムザンビアサテライトにて

[写真2]コッパーベルト大学副学長との面会

[写真3]ダグ・ハマーショルド研究所前でDHIPSの院生と

 2015年2月21日から28日までの8日間、未来共生プログラムのサテライトがあるザンビア・コッパーベルト大学(Copperbelt University, CBU)を拠点にして、2014年度のザンビア研修「平和と安全保障スタディ・プログラム」が実施されました。未来共生プログラムの学内プログラム担当者である、ヴァ―ジル・ホーキンス准教授(国際公共政策研究科)を中心に企画されたこの研修には、プログラム履修生の小川未空さん(人間科学研究科・博士前期課程1年)、木場安莉紗さん(言語文化研究科・博士前期課程1年)、崔鍾煥さん(言語文化研究科・博士前期課程1年)の3名が参加しました。

 研修の目的は、南部アフリカ中央部に位置するザンビアから、平和と安全保障について社会的、経済的、政治的、そして歴史的な観点から複眼的に考えることです。ザンビア北西部には「コッパーベルト」と呼ばれる銅の鉱脈があり、ここでの銅の生産がザンビア経済において最大の比重を占めていることはよく知られている通りです。またザンビアは、銅だけでなく、コバルト、ニッケル、鉛、亜鉛、鉄鉱石、マンガンなど多様な鉱物資源を産出しています。こうした鉱物資源は局所的にしか存在しないにもかかわらず、現代のわたしたちの生活に欠かすことのできない物質*であるために、たびたびその存在自体が争いの火種となってきました。

* たとえば、銅は家電製品全般に、コバルトは携帯電話やパソコン、デジタルカメラのリチウムイオン電池に使用されています。

 アフリカ大陸を舞台とした、このような資源争奪戦で最も有名なものが、1960年にザンビアの隣国コンゴ民主共和国で起きた、コンゴ動乱だといえるでしょう。西欧列強諸国の植民地だったアフリカの各地が次々と独立を果たし、「アフリカの年」と呼ばれた1960年、ベルギー領コンゴは、コンゴ共和国として独立を果たしました。しかしながら、独立までの準備期間はわずか5ヶ月、社会統治システムなどが植民地宗主国ベルギーから適切に移管されなかったため、独立直後からコンゴは混乱に陥ってしまいます。コンゴの社会秩序回復を掲げてベルギーは自国の軍隊をコンゴに投入、こうしたベルギーの内政干渉に反発するコンゴ軍との間で戦闘を引き起こしました。さらにこの混乱に乗じて、コッパーベルトに位置するコンゴ南部のカタンガ州が「カタンガ国」として分離独立を宣言します。その背後に銅の権益を狙うベルギーと多国籍企業の存在は明らかでした。こうした状況を受けて国際連合が動き出します。安保理決議の採択、コンゴ国連軍の派遣だけでなく、1961年には当時の国連事務総長ダグ・ハマーショルド自身が停戦を協議するために、コンゴの隣国ローデシア(現ザンビア)のンドラ(Ndola)へと向かいました。しかし彼の乗った飛行機がンドラ近郊で墜落、停戦協議は実を結ぶことがないまま、事態は長期化していくことになります。ハマーショルドの死後、カタンガ問題に対して国連やアメリカ合衆国が積極的に介入を続けた結果、カタンガ問題は収束するに至りました。しかしながら、「動乱」を終結に導いたのは、常にこの混乱の中心にいた、コンゴ国軍のモブツ・セセ・セコによるクーデターであり、これがその後30年以上にわたるモブツの長期独裁支配の端緒となったことは皮肉としか言いようがないでしょう。

「平和と安全保障」セミナーにおける履修生のプレゼンテーション

[写真4]木場安莉沙さんのプレゼンテーション

 さて、わたしたち未来共生プログラム一行が降り立ったのが、かつてダグ・ハマーショルドが目指したンドラ空港でした。ンドラ空港から車で約1時間の町キトウェ(Kitwe)にあるコッパーベルト大学ダグ・ハマーショルド研究所(Dag Hammarskjold Institute for Peace & Conflict Studies: DHIPS)が今回の研修の目的地です。プログラム履修生たちは、DHIPSの学生・院生たちと共にここで開催された「平和と安全保障」セミナーに出席し、各自10分程度のプレゼンテーションを行いました。プレゼンテーションのタイトルは次の通りです(発表順、敬称略):

  • 木場安莉沙:Is Japan Democratic Nation? ―― through Japan’s ISIS hostage crisis
  • 小川未空:Japan’s Invisible Poverty ―― A Case Study of a high school in Osaka
  • 崔鍾煥:Power and Corruption in Military ―― A Case Study of South Korea

 東アジアからアフリカが遠いと感じられるのと同様に、アフリカから日本は遠い存在です。単なる地理的な距離感だけでなく、感覚的な距離感をいかに埋めて、自分たちのプレゼンテーションを相手の腑に落ちるものにするか。自分の関心領域に合わせて、ザンビア出発前から試行錯誤を重ねてきたプレゼンテーションは、それぞれの手腕が問われるものでした。慣れない英語での質疑応答で、その距離感を埋めるべく奮闘する彼らの姿には、一年間のプログラム履修を通しての成長が感じられました。

カンサンシ鉱山の見学

[写真5]露天掘りの採掘場

[写真6]採掘場地形図

[写真7]銅精錬工場

 ザンビア2日目、前日同様DHIPSの一行と共に、北西州ソルウェジ(Solwezi)にある銅の露天掘り鉱山、カンサンシ(Kansansi)鉱山を見学しました。カンサンシは、ふたつの露天掘り採掘場と銅精錬工場から成る大規模な銅鉱山です。わたしたちはバスで鉱山各所を巡りながら、担当者からカンサンシ銅鉱山開発の経緯、採掘の現況・今後の展開、企業としてのCSR(Corporate Social Responsibility:企業の社会的責任)活動などについて話を聞きました。

 露天掘り法は、鉱物資源を採掘するのに坑道を作らず、地表から順々に掘り進んでいく採掘法ですが、大型機械を導入して大規模に開発された露天掘り採掘場が眼下に広がる様は圧巻です。企業担当者の話によれば、現在ある2ヶ所の採掘場をひとつにつなげるべく、開発を続けているとのことでした。しかしながら、現在開発中の鉱床は今後14年ほどで掘り尽くされてしまうと聞き、剝き出しになった地表を目にして鉱山の「その後」が気にかかります。

 鉱山会社の描く未来図は、地下数10メートルに及ぶ採掘場を湖に、周囲を野生動物の生息する緑地へと変える、自然公園としての再利用です。地下の採掘場にたまる水をくみ上げながら開発を続けている現状を踏まえれば、「湖」案もそれほど実現性の低いものではないでしょう。ですが、日本で明治時代に起きた足尾銅山鉱毒事件にも明らかなように、十分な環境対策が行わなければ、銅山閉山後も水質汚染や農地の汚染を広範囲に引き起こす可能性があります。また、銅精錬の過程では酸性雨の原因となる二酸化硫黄が大量に発生します。精錬工場周辺で、こわばったように伸びる樹幹に目をやりながら、鉱山会社の提示する未来図に疑問を抱かずにはいられませんでした。

コンゴ民主共和国出身の元難民の方々からの聞き取り

 ザンビアでは、インサカ(insaka)と呼ばれる草ぶきの東屋をいろいろな場所で目にすることができます。ザンビアの主要言語のひとつ、ベンバ語(Bemba)で「人の集まる場所」を意味するインサカに集い、わたしたちはザンビアの隣国コンゴ民主共和国出身の元難民の方からザンビアへ逃れた経緯や現在の生活について話を聞く機会を得ました。

[写真8]インサカ

[写真9]コンゴ民主共和国出身の元難民の方々

 ザンビアは1964年の独立以来、深刻な政治的混乱を一度も経験していません。そのためザンビアは周辺国からの難民受け入れ国として、地域の安定のために積極的な役割を担ってきました。1990年代以降、周辺国での政情不安を受けて、ザンビアには複数の難民定住地・キャンプがつくられましたが、ソルウェジにあるメヘバ難民定住地(Meheba Refugee Settlement)は、1971年にアンゴラ独立をめぐる争いから難民化した人々を受け入れるために開設されたザンビア最大の難民受け入れ施設です。現在では、アンゴラ難民を中心に、コンゴ民主共和国やルワンダからの難民が暮らしています。

 そもそも、なぜコンゴ民主共和国からの難民がやってくるのでしょうか。ことの発端は1994年4月にルワンダで起きたジェノサイド(多数派フツ人による少数派ツチ人の大量虐殺)でした。ジェノサイド発生から3か月後の7月、ルワンダの隣国ウガンダを拠点とするツチ人の反政府勢力がルワンダ全土を制圧・新政権を樹立し、ルワンダ国内での混乱は収束しました。しかしながら、このジェノサイドにおける犠牲者数は、わずか3ヶ月の間で80~100万人にのぼるともいわれており、ジェノサイドに加担したフツ人たちは報復を恐れてザイール(現・コンゴ民主共和国)に逃亡します。こうしてフツ人から成る、新たなルワンダ反政府勢力がザイールを拠点にして本国への攻撃を開始するに至りましたが、同時期にアンゴラ、ウガンダ、ブルンジの反政府勢力もザイールを拠点に活動していました。こうした事情から、1997年にルワンダがザイールの反政府勢力と手を組み、自国の反政府勢力制圧を掲げてザイールを侵攻した折には、アンゴラ、ウガンダ、ブルンジもルワンダ側の支援にまわることになります。周辺諸国からの攻撃によりザイール政府は崩壊、30年以上におよぶモブツ大統領の独裁政権に終止符が打たれ、コンゴ民主共和国が誕生しました。

 しかし紛争はここで終わりませんでした。1998年、ルワンダ、ウガンダ、ブルンジが再び反政府勢力を支援しコンゴ民主共和国を侵攻、これに対し今度はアンゴラ、ジンバブエ、ナミビア、チャド、スーダンがコンゴ側について派兵したため、事態は膠着状態へと陥ります。これによって300万人以上の市民が犠牲になっただけでなく、多数の難民が生みだされることになりました。2002年に和平合意が実現したものの、今度はコンゴ東部地域で武装集団の動きが活発化します。これも2009年に停戦宣言へと至りましたが、コンゴ情勢は依然として不安定だといえるでしょう。

 コンゴ民主共和国における紛争の背景を知ることはもちろん大切ですが、このような歴史教科書的な記述から、紛争で荒廃した国で暮らす人々の恐怖や苦悩を想像するのは難しいことだといわざるを得ないでしょう。今回、元コンゴ難民のヴィンセントさんが語ってくれた自身の経験――牧師だった父親がひどい暴行を受けた結果、身体以上に精神を病んでしまったこと、真夜中に国境を越えてザンビアに入国したが、見つかるのではないかと街を避けて長い距離歩いたこと、現在は携帯電話のプリペイドカードの販売員として父親に代わって働いていること――は、紛争の被害者は実戦における戦闘員だけなのではなく、戦闘に加わらない大多数の一般市民なのだということ、そして紛争は歴史記述にあるように時間的な区切りをつけられるものなのではなく、人の一生に影響を与え続けるような継続的な事象であるということを再確認させてくれるものでした。

カスンバレサの入国管理局の見学

 ザンビア3日目、未来共生プログラム×DHIPS一行が目指したのは、コンゴ民主共和国との国境の町カスンバレサ(Kasumbalesa)の入国管理局です。内陸国であるザンビアは、コンゴ民主共和国のほかに、アンゴラやナミビア、ボツワナ、ジンバブエ、モザンビーク、マラウィ、タンザニアと国境を接しています。入国管理局の担当官によると、複数ある入国管理局のなかで、道路の整備状況の良いカスンバレサの出入国取扱数は国内最多であり、その大半はトランジット(最終目的地がザンビア国内ではなく、ザンビア周辺国)だということでした。たしかに、国境周辺で見かける大型トラックにはコンゴ民主共和国の輸送会社名が目立ち、ナンバープレートには周辺各国の国名が多く見られます。また、カスンバレサのマーケットに荷卸しされていた段ボール箱には “samaki”(タンザニアの公用語であるスワヒリ語で「魚」)と記されていたことからも、ここが交通の要衝であることを実感することができました。

[写真10]入国管理局の敷地内で、コンゴ民主共和国への通行許可を待つトラック群

[写真11]入国管理局屋上から、国境の無人地帯とコンゴ民主共和国を臨む

ダグ・ハマーショルド国連事務総長の搭乗機墜落現場の訪問

[写真12]記念碑

 ザンビア滞在最終日、わたしたちはンドラにあるダグ・ハマーショルド国連事務総長搭乗機墜落現場を訪れました。現在ここには記念碑と資料館が建てられ、カタンガ問題の収束を目指したハマーショルドの功績が称えられています。

 ところで、ある歴史的なものごとについての語りには、アナザーストーリーが付き物ですが、ハマーショルドの「墜落事故死」についても例外ではありません。墜落なのか撃墜なのか、事故死なのか殺人なのか。もしここに何らかの勢力がかかわっているとするなら、黒幕は、実行犯は誰なのか。そしてその動機は。そうした物語は今のところ資料館に収められることもなく、歴史の裏側にとどめられています。豊富な鉱物資源をめぐる争いのさなかに起きた「墜落事故」、それからほぼ半世紀を経てもなお、世界の鉱物資源争奪戦は衰えを見せるどころか激化の度合いを高めています。彼の死についての解明は、レアメタルをめぐって新たに展開する資源争奪戦の終結を待たなければならないのでしょうか。だとするならば、電子機器によってもたらされる便利さの裏側にある現実と、日々の平和の意味について、わたしたちが改めて考えるときに来ているのかもしれません。
 
 

[写真13]資料館にて、墜落事故当時の情勢について聞く

[写真14]記念碑近くには、平和に身を捧げたハマーショルドの言葉が記されている

全日程を終えて

[写真15]”リアル”ペクト、見つけました!

 ザンビアでの全日程を終えて、未来共生プログラム一行は帰国の途に就きました。「平和と安全保障」というテーマは、一見したところ国際政治の舞台でのみ取り上げられるテーマのように映るかもしれません。しかしながら、この地域での平和と安全の鍵となる鉱物資源は、わたしたちの日常生活を支える電子機器に広く使われています。資源をめぐって争われる遠く離れた場所の紛争は、わたしたちとけっして無縁なものではないのです。もちろん、今回垣間見ることになったさまざまな問題が、政治的、経済的、社会的、歴史的な要因が絡み合う複雑なものであることは疑いようがありません。しかし、たとえそうだとしても、「世界は自分の半径50cm以内にある」という意識を持ち続けることが平和構築への第一歩となるのではないか、そう実感した研修でした。

 
 
 
 

*履修生の学年は2014年度のものです。
(2015年4月12日, 神田)

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