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活動報告

Trip to Toronto(5期生大野さん達の独占ルポ)


 4月25日から5月7日の日程でカナダ・トロント大学を拠点に5期生のフィールド研修が行われます。今年度は大野祐弥さん[言語文化研究科]、Frieda Joy Angelica Olay RUIZさん[人間科学研究科]、中川佳保さん[言語文化研究科]、張茜樺さん[国際公共政策研究科]、櫻木晴日さん[人間科学研究科]、聶蕙菁さん[人間科学研究科]が現地から報告して下さいます。カナダは多文化主義を国是として掲げている国です。トロントでどのような経験を得るのでしょうか。オンタイムで記事を更新できればと思います。

May 2: Musings of Temporality in Kensington Market

[写真]Kensington Market during the morning

We went to Kensington Market again today (May 2) after our initial visit yesterday. After that initial visit we were told to brainstorm with one’s group to choose a specific topic that we can present about the market. Our group (Team Mosaic) thought about looking at temporalities in Kensington Market which focused on the different activities during the different times that we visited the market. We came up with this topic because our group noticed that different times of the day catered to different people and activities.

Yesterday’s activity saw a deluge of groups in the market. The weather was sunny and warm. We came before noon and observed that there were some people who walked around on their own but most went with two or more people with them. Quite visible were those who went around in big groups, with 10 or more people in a group, and were walking together. Foot traffic was slow because the streets were packed. People were going in and out of the stores, looking around and taking photos or selfies. Aside from foot traffic were cars and other vehicles such as trucks that passed by that added more to the congestion. We decided to have lunch in a Hungarian-Thai Restaurant where I ordered Pad Thai. I thought the quality to be almost the same as I had it in Thailand and albeit the much higher price compared to how much I can get it in Thailand I was really happy with my order and it was easiest the most delicious meal I had so far in Toronto. Lunch was served slow because the restaurant was full which was understandable because it was lunch time and other restaurants in the market were also jam-packed with diners. We stayed until after lunch time and went back later in the afternoon. At this time, there were already less people in the streets. The restaurants were still packed but now with people who were drinking beer.

Today’s visit was a morning activity and I observed that “AM Kensington Market” could not be any more different than “PM Kensington Market”. The market was really quiet with no presence of the tourist crowds yet. There were no traffic jams caused by cars akin to what was observed yesterday so the streets were spacious. There were people who walked their dogs, some were walking their babies in a stroller, some people were jogging, some seem to be off to work, there were also a handful doing their groceries or buying produce, two were seen to be at the Laundromat, one lady was waiting for her dentist in a clinic and there were about 5 or 6 people outside the St. Stephen Community House which caters to the homeless. The stores that cater to tourist were not yet open as most of them open before noon. I realized how small the place actually is especially that it was much easier to move from one place to another compared to yesterday.

It seemed that “AM Kensington Market” was more of a space for people who live in or near the area while “PM Kensington Market” caters more to the tourist crowds or people who want to spend their time in the restaurants to eat, drink, shop, sightsee and shop. It is interesting to mention that during the late afternoon, there were no homeless people lining up in the St. Stephen Community House. It seemed to me that the timing was made so that services that catered to the homeless would be given during the morning when there were no tourists and then they efficiently become invisible during the afternoon so as to hide their presence. This became clearer to me when I talked to a staff in Blue Banana, a shop that sells souvenirs, who told me that they close their store at 6:30pm (which I opined was rather early) in order for the tourists to stay out of the market at dark which is the time when the homeless go back to their spots. Most of the shops in the market also close from around 7 to 7:30pm.

We only did the activity for a very short period of time so we could not draw a conclusion, however it gave us a glimpse about the complex dynamics in the market. It made me see Kensington Market as a multi-layered space with different facets depending on time and people. The group presentations in the afternoon were informative and brought out the question of what is ‘local’ and ‘national’. The definitions of the two terms are loose and relational hence the need to explicitly define the terminologies. The short field activity in Kensington Market showed us that beyond the touristy and commercial atmosphere, so much dynamics abound its space that could be seen in its façade.

(May 2, 2018, Frieda Joy Angelica Olay RUIZ)

5月2日: トロントへ来て8日目

[写真]Bonnie先生の家の前の通り。風が強過ぎて折れた木が電線と絡まって地面に落ちている。

今日はとても長い1日だった。あと、風が強かった。
今までは、あっという間に終わっていた日が続いていた気がする。

朝は、雨がぱらついていた。傘を差していない自分に、ちょっとトロントに馴染んだかなと思ったりした。

日中はworkshopだった。workshopは、(Re)Thinking Diversity & Comparisonというタイトルで、阪大生が構成する3グループの発表と、トロント大学で学ぶ学生の発表が3つのパートに分かれて行われた。発表は、体が震えるくらい緊張した。

“unsettling”というのが今回のworkshopの一つのキーコンセプトだったのだが、workshopに参加することで、まさに、unsettleされたこと、すなわち、今まで疑ったことがなかったことを疑うことになったことがたくさんあった(下にunsettleについて書いている)。

当たり前だけれど、発表の後のQuestion&Discussion(日本語で言う質疑応答?)が英語で行われていることに、急に非現実さを感じたりしていた。わずかながら自分が行ったことのある学会や研究会に比べて、議論が徹底的で、本気で、よそよそしくない感じがした。

workshopの最後のスティーブの話に感動した。また、workshopを締めた後、ethnomusicologyをやっている人がギター(っぽい弦楽器)を演奏してくださったのだが、それがとても心地よかった。その人が紹介していたShingoという人の「地球のうた」という歌は特にそうだった。力が抜けて、音の流れに身を任せているような気持ちになった。

終わった後は、トロント大学の生協的存在のお店で、トロント大学パーカーなどを爆買いした。インドネシア研修の時に、お土産を買い過ぎたら帰りが大変だから、キャリーケースに収まる量しか買ってはいけないと学んだはずだったのに、買い過ぎてしまった。楽しかったのでよい。

一日の最後は、授業をしてくださったBonnie先生の家に招いていただいて、そこで過ごした。研究の話やKyoseiについての話を先生方とさせていただくというのが大学院生としてはよかったのかもしれないが、自分は主に、パーティに来ていた4歳の女の子に遊んでもらっていた。童心をためらわずに表して過ごせるので、遊んでもらえてとてもありがたかった。

この10日ほどで、多くのことを学んだ。自分が学んで終わりではない。これをいかに日本に持ち帰るか、考えなくてはと思う(workshopの時にしていただいた質問で、このことを実感した)。

unsettlingについて

Unsettleの例として、以下のような流れがある。

 これは、「比較できる」という感覚のunsettleである。
 二つのものを見たときに、直観で、「比較できる」と思う。
 (Kensington Marketに行って、コリアタウンと比較できそうだと思う)
 いざ比較してみようとすると、そもそも比較できるものではないように思われる。
 (出来上がった時代も経緯も主体も違う、現在に至るコンテクストが違う)
 なぜ、最初に、「比較できる」と思ったんだろう?
 何が、「比較できる」と思わせたんだろう?
 また、比較できたとしたら、それを比較可能にした軸はなんだったんだろう?

自分がunsettleさせられたものの一つに、線を引くこと(categorization)がある。今まではなんの疑いもためらいもなく過ごしていたが、線を引くこと(categorization)には、自分が思っていた以上に慎重さが必要だと思い始めた。

線を引くことには、ある種の「決めつけ」が伴う。今考えてみれば当たり前のことだけれど、何かをカテゴリー化すると、そのカテゴリーの中に入れられたものは、カテゴリーの要素間に差異があっても、画一化されたものとして考えられる。例えば、今回のトロント研修で、阪大から参加している16人を、「日本人」とカテゴリー化してしまうと、モハーチ先生やスティーブ、アブドやフリーダさん、サニーさん、けいのことも「日本人」とすることになる(と発表練習の時にモハーチ先生に教えていただいた)。このことの問題は、日本人じゃない人/自分のことを日本人だと思っていない人(と思われる人)にまでも「日本人」というラベルを貼ってしまうことにある。

そして、この問題にぶつかると、自分の線引きが妥当かどうかを疑い始める。「日本人」の例でいうと、そもそも「日本人」とは何か?という疑問が生まれる。定義によっては、上で「日本人じゃない人/自分のことを日本人だと思っていない人(と思われる人)」に入れられる人も「日本人」になる。(※ここで「日本人じゃない人/自分のことを日本人だと思っていない人(と思われる人)」というカテゴリーが生じており、このカテゴリーについても同様の疑いのループに入る)

さらに、ここで、この疑問の解決の難しさにも直面する。この疑問は、線を引く側だけでなく、線を引かれる側も考えなくてはならないことだからだ(むしろ、線を引かれる側の方が、線を引く側よりずっと考えているんじゃないかと勝手に思っている)。もう少し詳しく。線を引く側と引かれる側の間で認識が一致しないとき、引かれる側の答えがはっきりして入れば、疑問は解決されうる。引かれる側みんなに聞いて回って、確かめて、自分の引いた線を修正し、そのズレを解消すればよいからだ。疑問の解決が難しいのは、引かれる側自身、答えがはっきりしない場合だ。例えば、私はモハーチ先生のことを日本人と思っているがモハーチ先生がそれに違和感を覚えるとき、モハーチ先生がはっきりと「自分は日本人ではない」と言ったら、私の「日本人」のカテゴリーは、モハーチ先生を含まないものになるように修正され、私とモハーチ先生の間でのズレはなくなる。が、もしここで、モハーチ先生自身も「自分は日本人じゃない気がするけどそうでもない気もする」と思った場合に、そのズレの解消はできなくなる。どんな線を引いてもしっくりこなくなる。こうして、はっきりとした線が引けないこと、つまり、カテゴリーの境界線がfuzzyなことに気づく。あるいは、線を引かれる側の違和感を残したまま、線を引かなくてはならないこと。

この、「線を引かれる側の違和感を残したまま線を引く」という行為が、初めに書いた「決めつけ」である。fuzzyな部分にあえて線を引くというのは(結構)暴力的である。

この暴力性を伴ってでも行う線引きにはどんな意義があるのか。何をもたらすのか。nationality、ethnicity、移民かどうか、こういうことはどうやって線を引いて決めたらいいのか。

(2018年5月2日, 中川)

5月1日: トロントへ来て7日目

[写真]ケンジントンマーケット

「ケンジントンマーケット」

今日は、ケンジントンマーケットにフィールドトリップに行った。ケンジントンには、おしゃれな服屋・世界各国のレストラン・興味深いカフェ(フィルムカフェなど)が多く、「the place for young person to hang out」と言われている。南米系のgroceries shop、うどん屋、メキシカンフードショップなど、各国の店が並び、観光客にも店のスタッフにも多様性が見え、多文化主義のシンボルとも呼ばれている。

午前のフィールドトリップが終わってから、ケンジントンにある世界初のハンガリーとタイの料理をみんなで食べに行った。ハンガリーとタイの料理をどうやって組み合わせて作るんだろうと期待しながら店に入った。メニューを見た瞬間、なるほど!普通にハンガリー料理もタイ料理も扱っている店だった。タイ料理はすごく美味しかったけど、Paprikashというハンガリー料理は私たちの好みではなかった。料理の説明にbeef 〇〇 with dumplingsと書いてあるが、料理を見た瞬間、私たちは当惑した。謎のヨーグルトソースをかけているビーフと初めて見る麺類の組み合わに、「不味くはない」「食べれる」というコメントがあった。 笑笑笑

午後のセッション後、またケンジントンマーケットに戻り、面白そうな店に入って観光客として楽しんでいた。最後にヒッピーな店に入り、ひとりの日系人の男性と出会った。彼との会話は弾み、「There is no history in Kensington Market」という言葉がすごく印象に残った。猫を捕まえて注射したという謎の話もあった!

「NBA」

フィールドワークが終わってから、モハーチ先生、かほ(中川さん)とフリーダと一緒にNBAの試合を見に行った。ケンジントンから徒歩30分、やっと到着した。試合が最高だった。(関係ない話ですが、途中でかほとビールを買いに行った時、年齢確認された~やほーー)トロントチームとアメリカチームの対戦で、アメリカチームが徐々に点差を縮めて、逆転し最後に延長戦に入り、一点差でアメリカチームが勝った。試合を見に行っていた人々は、職業、国籍、人種、民族にかかわらず、みんなで一緒に応援したり、得点を祝ったり、笑ったりしていて、スポーツの大切さをすごく感じたーーーー楽しい1日でした000

(2018年5月1日, 聶)

4月30日: “home”とは…?

[写真]共生社会を実現するための方法をグループで考えたときの板書

トロント研修も折り返しを迎えた。前半6日間は、映画でしか見たことのない高層ビルとレンガ造りの古風な建物(しかし入口前にスロープがしっかり作られているところは現代的といえるのかもしれない)に囲まれた街並みや、そこをvisible differences(目に見える違い)を持った人々が自然に行きかうトロントの日常の光景、朝から晩まで英語で「多文化」と「共生」について考えることなど、日本での風景との違いに驚き、それが自分の当たり前になっていく過程を感じるための期間だったように思う(もちろん時差にも…)。そして折り返しを迎えた今、フィールドワークで感じたことや授業で学んだことがつながり始めているのではないかと感じている。

30日はトロント大学で人類学の分野で活躍されているGrish先生の講義を受けた。”home”という切り口から多文化と共生を考えた。”What is home?”これが最初に投げかけられた質問だった。homeとは何か。皆さんは何を思い浮かべるだろうか。私はすぐ自分の部屋が思い浮かんだ。外から帰ってきて、過ごしなれたへやの中でも特に愛着のある座椅子で一息つく。そんなに綺麗な場所ではない(むしろ足の踏み場がないほど散らかっている)が、「今日も頑張った~」と1日を振り返ったり、何も考えずにぼーっと時間を過ごしたり、何にも気を遣わず、自分の時間を過ごす。それが自分にとって1番の”home”だと直感した。
しかし授業を受けているメンバーの意見を聞き、さらに講義を受ける中で、それ以外思いつきもしなかった考えを聞き、「”home”ってなんなんや?!」と、初めて”home”について深く考えることとなった。
“home”は単なる物理的な「家」を指すだけではない。心休まることもあれば、苦しむこともあり、でも魅力的な場所であるそうだ(Edward,1978の引用)。メンバーからは「信仰を通じて形成されるもの」、「hospitalityがあるところ」、「精神的に落ち着ける場所であるため、SNSなどのサイバー空間もhomeになるのではないか」など、様々な意見が出された。さらにhomeのポジティブな側面だけではなく、「homeに帰れ」という排除の文句に使われてしまうこともあるというネガティブな側面があることも伺った。
これらのことを聞いたうえで、homeは自分の心が自然に落ち着ける空間を広く意味するのであり、それは必ずしも自分の家の中にできるものではない。Homeは、実はどこにでも創造されうる可能性があり、だからこそ人々が自分を振り返り、落ち着き、たまには自分や周囲に葛藤しながらもそれを乗り越えているだけの力を蓄えられる場所なのかもしれないと感じた。

改めて自分の”home”を考えると、私が直感したhomeは自分の部屋というよりも、突き詰めて考えれば「自分が無理せず、気ままに過ごせる時間」と、「それを十分に確保できる空間」のことだったのかもしれない。しかしそれが思い浮かばなかったということは、気ままに過ごせる時間を、確保できる空間は、やはり今のところ自分の部屋しかないのだと思う。自分がこれらの時間と空間を外部に持てた瞬間というのは、私が他者を気にせず、安心して交われる空間を見つけたときなのだろう。この空間は恐らく私に様々な場の使い分けを可能にし、閉鎖的な自分の家からの脱出を助けてくれるだろう。多くの人が自分の家以外の場所で、2つめ、3つめのhomeができれば、色んな人が色んな場所で無理なくつながっていけるようになるのかもしれない。それは全ての人を取り込む一つの方法になる。

以上のようにhomeを拡大して捉える視点を得て再考してみたが、「自分の部屋」を外部にも作ることが本当に可能なのか、やはり疑問が残る。本当にhomeは作れるのか、それはどうすればいいのか、これは今後の課題として、homeをめぐる自分の頭の混乱をしたためたところで、今回の報告を終えたい。残りの日程も、日々悩みながら走り抜けたい。

(2018年4月30日, 櫻木)

4月29日: トロントへ来て5日目

[写真]午後に訪問したCoptic Churchでチャーチファーザーと一緒に

あっという間にトロントについてから五日も経った。皆さんは完全に時差ボケに慣れてきた気がする、と言っても、初めてのフル一日のフィールドであるため、なんだか疲れている方もいる。

今日はフィールド研修を中心に、2つの教会を見学してきた。その後、一日の疲れで、直接ホテルへ帰ってそのまま休んだ方がいれば、一旦「うわさの」ケンジントンマーケットをぶらぶらしてから、タクシーでホテルへ戻った方もいる。なぜタクシーでホテルへ戻ってきたかというと、今日の夕方7時から開催される、4月23日(現地時間)にトロントで発生した車両突入事件の死亡者を哀悼するためのセレモニー(詳細はhttp://www.cbc.ca/news/canada/toronto/sunday-vigil-what-you-need-to-know-1.4640203へ)に行くためであった(行ったメンバーはホテルで合流)。

午前中に見学してきたのは、Pentecost International Worship Center(PIWC)というチャーチであった。PIWCはガーナ人がよく集まるチャーチで、かなり大きなチャーチであった。そこでチャーチに来ていた人と一緒にバイブルスタディーをして、「worry(心配事)」について考えたり、その考えをシェアしたりした。宗教色もあったが、ちょっとした哲学授業のような感じであった。その後、礼拝が始まり、皆さんの歌とダンスのリズムに乗り、一緒に手を振ったり、踊ったりして、楽しんだ。ただ、礼拝は長かったので、質問時間があまり確保できなかったが、昼食や移動バスの最中に「日本の教会と比べて5倍以上の熱意もあったね」とクリスチャンの日本人の学生が言った。

昼食後に、Coptic Churchを訪問した。Coptic Churchで一番印象に残ったのは、チャーチファーザーが「何か飲みますか?コーヒが良いですか…ホートチョコレートもありますよ…」と私たち一人ずつの希望を聞き、飲み物を用意してくれたことであった。1階の入り口近くの一角に様々な飲み物を作る機器が置かれ、他にも椅子やソーファ、テーブルが置いてあるスペースがいくつあり、普段はここで、みんなで食事をしているという。また、2階の礼拝党にはキーズコーナーも設置しており、絵本のような子ども用の聖書も置いていた。さらに、普段このチャーチに来ている人の国籍も非常に多様である上、クリスチャンでない人でも気楽に入れるという話も聞かれた。

夕方には、一部のメンバーでノースヨークのメルラストマン広場で開催されるセレモニーに行った。非常に寒い気温の中、ジャスティン・トルドー大統領も来場したこともあり、非常に大勢の参加者で壮観であった。一方で「…政治的なパフォーマンスをするな…」と叫ぶ声も聞こえた。天気が非常に寒かったので、セレモニー後に皆で広場近くの韓国料理に食べに行った。韓国料理店ではあるが、メニューには中国語も書いてあり「私は英語より日本語の方が上手だよ」という韓国の女性店員は、非常に暖かいホスピタリティーで接してくれた。暖かい料理を食べながら、寒気を取りつつある中、ボケていた学生が1人いて、みなさんが賑やかにツッコんで、和気あいあいと過ごした、異なる学年間の交流も深めてきた。

(2018年4月29日, 張)

4月28日: トロントへ来て4日目

[写真]Humber River。水が茶色いのは、春になって雪がとけて、汚いものを全て流しているから。自浄している。

昨日までは非現実的に感じていたトロントの景観たちにも、今日でだいぶ慣れた気がする(昨日までは映画の世界にいるような気分だった)。地下鉄に乗るというより新しい経験をして、相対的にみて慣れたつもりになっているだけかもしれない。ともあれ、だいぶ慣れた。

今日は、午前中に授業を受け、大学近くで昼食をとった後、フィールドトリップへ出た。
登校中、車が来ていないからと信号無視をして歩道を渡る場面に2度も遭遇し、大阪みたいだなと思ったのが、今日の印象的だった出来事だ。

<謝罪の意味、午前の授業から>
昨日と今日はカナダのMulticultural policyに注目するパートなのだが、今日の授業では、特に、Multiculturalismへの批判と、カナダの謝罪の歴史を学んだ。
「カナダの謝罪」とは、Japanese CanadianやAfricville、LGBTQTS、Residential School survivorsなど、数多くの相手に対する謝罪のことだ。経済的補償もある。1988年のJapanese Canadianへの謝罪に始まり、カナダは“謝罪の時代”を迎えている。

[写真]川に左腕を突っ込んでトラウトを捕らえたAlanさん。ものの数秒だった。

謝罪という行為が、政府と謝罪される側の二者の“共生”において、どのような意味を持つのだろうか、という疑問が湧いた。
この謝罪は、純粋な謝意だけでなされたものではないかもしれないと思ったからだ。謝罪は、謝罪される側だけでなく、謝罪する側である政治家にも需要があるらしい。それは、倫理的な動機だけではなく、自分の選挙を有利にするためというような、私欲のようなものも含むのだ。
また、謝罪の歴史の周りには、謝罪されなかった集団も存在する。謝罪はされず、経済的補償だけがなされた事例だ(例:High Arctic Relocation Reconciliation Agreement)。

一日考えて絞り出された答えは、「謝罪は、“悪化してしまった関係”を修復するための第一歩になる」という、幼稚園でも習うような初歩的なものだった。
頭でっかちな話になってしまうが、昨日、Multiculturalismと共生の違いについて議論して、“共生”には、両者のinteractionが含意されるのではないかと思った。ただバラバラに存在するのではなく(バラバラではあれ、お互いが快適に過ごせる状況もまた達成が難しいことではあるが)、二者が存在することで新しい価値が生まれる状況が、共生なのではないかと思った。
Interactionを生むためには、関係が悪化して離れてしまった二者が近づくことが必要である。その“近づき”の第一歩に、謝罪があるのではないかと思った(いくらそれが形式的でしかないとしても)。

[写真]赤、黄、黒、白の順にCreationの流れ。煙によってSpiritを清める。

自分は、これを考えるにはあまりに何も知らなさすぎる。

<午後のフィールドトリップ>
午後は、Alan Coleyさんという原住民の男性から、Humber River沿いを歩きながら、Alanさんが先祖たちから受けてきた知識、カナダのMulticultural policyについての考えなどを教えていただいた。

Alanさんにとって大事なのは、自分と他者(自然も含む)との関係を意識することだ。
あらゆるものの創造(Creation)は、他者との関係の中で説明されるそうだ。空気・水・大地から植物が生まれ、植物を糧に動物が育ち、死ぬと土に還って栄養となる、というように。人間もこのCreationの流れの中で生きている。そして、人間を動かすSpiritをよく育てるためには、感謝によってよいものとなった自然を糧にすることが重要である。

 

(2018年4月28日, 中川)

 

April 26: Engagements within the Academic Space and Beyond

[Pic.]First Nation House Wall Art

Still reeling from yesterday’s long haul flight, I put on a positive outlook for the day ahead wherein our group from Osaka University finally sets foot at the University of Toronto. The beautiful sunshine and cool spring weather greeted us as we made our walk from the hotel. It was indeed a pleasant day and I could not have wanted it any better.

We were warmly greeted by Prof. Shiho Satsuka at the Munk School of Global Affairs Transit House. Prof. Satsuka gave an overview of what we were to expect in the coming 9 days and left a very important thing to ponder on which is to take good care of the most important tool that an anthropologist can have which is one’s own body. She said that failure to do so would mean that one’s senses would not be attuned to observe what is going around the observed space. She then introduced us to the Research Assistants who would be assisting us during the course of the Summer School Program.

We were later led by Prof. Satsuka and the RAs to go on a campus tour in 7 important locations within the St. George campus which cater to the various needs of the student population and also extend to the community at large. We first went to LGBTOUT which serves as a resource center for the LGBT (Lesbian, Gay, Bisexual, and Transsexual) members of the UofT. The resource center also serves as a space to hang out in a relaxed atmosphere. There are also volunteers who help on 4 shifts per day. Although the group’s primary target are LGBT, we were told that those who do not consider themselves as LGBT but are supportive of their cause can also volunteer.

[Pic.]Plants in the Greenhouse

Our second stop was the First Nation House (FNH) where we were welcomed by Jeffrey Kiyoshk Ross, FNH Resource Center Coordinator and Julie Ann Shepard FNH Coordinator of Academic Support who introduced the projects of FNH which are to primarily provide financial and academic support to indigenous students of the UofT. Trainings and workshops which are open to the other members of the university community are also held on a regular basis. They also hosted our lunch of indigenous cuisine which included a dish made up of squash, salad, rice, and cake. It was my first time to taste it and I can say that with its focus on vegetables, it was a really healthy meal. We were privileged to meet and talk to the other members who further explained the thrust of their organization.

The next stop was the Dalla Lana School of Pubic Health. The timing was perfect for us to connect the stories that we heard from the FNH in relation to public health and the indigenous worldview. Dr. Angela Mashford-Pringle had us understand why the issue of health and indigenous groups often come up together and we were told that is because of the unfortunate statistics wherein indigenous groups have a lower lifespan compared to other groups in Canada. Aside from programs in research and education, the Dalla Lana School of Public Health also engages in partnerships with the Indigenous communities by providing community service and having collaborative programs with them.

We then left to check out the Greenhouse and DigIn! Campus Agriculture Network where Anthropology Chair’s Assistant Kristy Bard introduced us to the importance of growing your own organic produce not only to promote a healthier lifestyle but also to raise awareness on the abuses accorded to temporary farm workers in Canada. In order for the group to meet their objectives, shared promotion and event collaboration, and information, advice, or resources are given to those interested in maintaining a small-scale agricultural greenhouse.

[Pic.]Roberts Library which is thought to shape either like a peacock or a turkey.

We had a brief stop at the Multi-faith Center which is a space that promotes respect and mutuality among the different faiths on campus. It has rooms which provide for the needs of religious groups and an area where people can meditate. Being in a country that celebrates multiculturalism I thought that this is a good initiative to have believers of the diverse faiths get together in one roof. It shows that everybody has the right to worship and chose according to their own spiritual needs and the proximity allows those of different faiths to learn from each other. We passed through the Athletic Centre and ended our day tired but inspired of the implicit show of volunteerism and spirit of community in the East Asian Studies Union in the 14th floor of Roberts Library.
The campus tour showed us the various groups that are in the University of Toronto and the varied services that they have to offer. This made me understand the different ways in how multiculturalism is celebrated and how issues are addressed. They may have different causes but what weaves them together in a tapestry is their own differentiated ways of making it work for everybody which is what I think the spirit of multiculturalism embodies.

(April 26, 2018, Frieda Joy Angelica Olay RUIZ)

4月25日(水) 時差、ファミリー、ケチャップ。

[写真]ピアソン国際空港で

English

Departed from Tokyo at 5pm on 25th, and arrived in Toronto at 4pm on 25th. Feeling weird with this first-time-ever experience, I decided to watch movies on the plane: “Coco” from Disney/Pixar, and “the Greatest Showman” starring Hugh Jackman. I didn’t intend this but both of the movies turned out to be about “family” or “home”.

The theme of “Family” in the first movie is quite simple. It is your parents, grandparents, and ancestors. The lesson Disney conveys is also simple, and that is that “family” is by far the most important.

“Family” in the latter, by contrast, is a bit more complicated. Of course it is about the protagonist’s beloved wife and daughters, but the spotlight is also directed on to a different form of “family.”

The protagonist, who is apparently the greatest showman, produces what is known as a “freak show.” The performers include a man with dwarfism, an extremely tall man, a woman with a beard, and many more so-called “freaks”.

They had always been hidden even by their family, and treated harshly by the world, until the protagonist put them together on the stage.

“You put us in the spotlight, and you gave us a real family.”

Those words uttered by a woman with a beautiful voice and a thick beard are profoundly memorable.

In the program, we get the chance to visit a Ghanaian church and learn about “home-making.” The movies allowed me to think about “family”, and now the opportunity to think about “home” is waiting ahead.

日本語

25日の17時に羽田を出発し、25日の16時にトロントに到着する。

17時に出発し、同じ日の16時に到着する。文字にするとますます変な感じである。

初めての大きな時差、不安かどうかもよく分からないなか、僕は機内で映画を観ることにした。

ディズニー・ピクサーによる『リメンバーミー』と、ヒュー・ジャックマンが主演をつとめた『グレイテスト・ショーマン』の2作である。

まったく意図したわけではないのだが、観終わってみるとどちらも family をテーマにした作品であった。映画のなかでも、これらの単語が繰り返されていた。

『リメンバーミー』の family はとても分かりやすい。一緒に暮らすお父さんやお母さん、何代かさかのぼった血のつながった先祖という family がなによりも大事であるというメッセージは、ディズニーらしくシンプルである。

一方『グレイテスト・ショーマン』における family は、すこし複雑なものであった。もちろん、主人公が妻や娘たちという family が名声や富よりも大事であることに気づくという筋書きは、ディズニーのそれと共通するものである。

しかし、この映画では主人公のそれとは別の family にもスポットライトが当てられていた。

「ショーマン」である主人公がプロデュースするのは、小人症の男性、背の高い大男、濃い髭の女性などを出演させた、いわゆる「フリークショー」と呼ばれるパフォーマンス。

彼ら彼女らは、自分の親からも存在を隠され、世間の人々からも笑われてきた。そんな境遇のなかで、このショーで仲間たちと出会い、パフォーマンスで観客を魅了する。

ショーのひとりである髭の女性が主人公に語りかける台詞は、とても印象的であった。

You put us in the spotlight, and you gave us the real family.
あなたは私たちにスポットライトを当て、本物の家族も与えてくれた。

(この台詞は、映画の公式のトレイラーでも聞くことができる。1:55あたりから。https://youtu.be/jr9QtXwC9vc

彼女は、血のつながっていない仲間たちが「本物の家族」であると感じていたのだ。

そういえば、今回のトロント研修ではフィールドワークで Home-making について学びにいく機会がある。

トロントに住む、ガーナの人々の教会に行かせていただくことになっている。キリスト教徒である僕自身、とても楽しみにしている。

映画を通じて family について考える機会が与えられた、今度は home について考える機会が待っている。

10日間の学び、一人ひとりの体調が守られ支えられますように。

話はそれるが、ホテルからレストランに向かうまでの道を歩いているとき、僕たちの1人が通行人に「ケチャップ」をかけられた。

「なんかケチャップのいい匂いがずっとするなと思うてたら、わたしやって。… だれやねん!」

トロントを歩くときは、ケチャップにも気をつけたい。

(2018年4月26日, 大野)

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