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活動報告

Trip to Toronto(2期生高原さんの独占ルポ)


 4月29日から5月11日の日程でカナダ・トロント大学にて2期生のフィールド研修が行われます。トロントの多文化主義を実地で学ぶのがその目的です。昨年度は1期生がすばらしい経験を得ましたが、今年度の2期生はどのように過ごすのでしょうか。2期生の高原耕平さん[文学研究科・博士前期課程2年]が現地から報告して下さいますので、オンタイムで記事を更新できればと思います。以下、高原さんからの報告です。

Trip to Toronto #11 Keep Fighting

[写真9]トロントの街にて

 11日にメンバー全員帰国いたしました。

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 いろいろな出来事や経験があり、それらをひとつずつほどき出し、思い起こそうとしながら、全体の印象を掴まえようとしますが、やはり一言で表現できるものではないようです。
 
 けれど、いま仮に今回の研修旅行とMulticulturalismの印象を、答えではなく一つの問いのかたちとして表現するならば、それは「なぜトロントはひとびとを世界中から惹きつけるのだろうか」ということになります。

 トロントの人口は約250万人、そのうち約半数が移民です。大阪に置き換えて考えてみると、すごいことだなと思います。

 カナダに移住を申請する際、すでに家族親族がカナダで生活基盤を築いている場合、申請が通りやすくなります。裏返して言えば、先に外国から移住して職と家を確保した人が、母国から家族や親族を呼び寄せるということが、カナダが安定して移民を受け入れる一つのメカニズムとなっているはずだということです。その「呼び寄せメカニズム」がうまく機能しているのは、なにより先に来た人が「呼び寄せたくなる」からだと思います。

 「おまえもこっちへ来い、いろいろたいへんだけど、ここには何かがある。幸せになれるし、食っていけるし、受け入れてもらえる」と言える。その〈何か〉、故郷の家族や同胞を呼び寄せることを躊躇させないものが存在している。それが、わたしたちが学んだ「多文化主義」の奥でほんとうに脈動していることにちがいない。

 日本には、この「呼び寄せたくなる何か」「惹きつけるもの」があるのだろうか、とも思います。もちろん、移民に関してはカナダと日本は歴史も伝統も態度も政策も基準も、全てが異なる。また、わたしはここで、日本は移民をより広く受け入れるべきである、という立場から話を進めているのでもありません。

 むしろそれ以前のことがらなのです。

 いま確かに、日本では労働力不足を補うために、移民に対する門戸を拡げるべきか否かの議論が始まりつつある。賛成・反対いずれの立場にも一定の説得力があるかもしれません。

 けれども、それはどこか一人よがりの議論になっているのではないか。つまり、日本政府が政策を変更して、今後はより積極的に移民を受け入れます、と言えば、それだけでたくさんの人々が世界中からやってくるということを賛成派も反対派も暗黙の前提にしているのではないか。

 惹きつけるもの、家族を故国から呼び寄せたくなるものが、ほんとうにこの国にあるだろうか。なるほど確かに、伝統的な文化財や最新のアニメーションなど、商品として輸出宣伝できるものはたくさんある。けれどそれは消費されるもの、無に帰してしまうものである。そういったパッケージとしての「我が国」ではなく、もっと静かで目立たない、五年や十年の政治政策では決して製造できはしない、自信に満ちた、矛盾や問題を受け止める奥行きがあり、季節のめぐりと調和した、開かれた雰囲気が。「ああ、わたしもここにいていいんだ」と感じさせる何かが。

 それは「ただいま」「おかえり」「ようこそ」がうまく機能する社会であるかどうか、と言い替えることができるかもしれません。Homeあるいは「住む」ということ。

 この国が移民を真に受け入れるならば、かれらに「ああ、わたしもここにいていいんだ」と感じてもらわなければならない。ところが、移民を受け入れるか否か以前の問題として、はじめから日本に生まれ住んでいる「わたしたち」自身が既に、「ここにいていいんだ」と感じることが難しくなっているのではないか。

 以上が旅の問いと印象ですが、ことばがだんだん上ずってきた気がいたしますので、文章を閉じたいと思います。

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 たくさんのことを書き残しましたが、本レポートはこれで最後にさせていただきたいと思います。長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。

 講義を担当していただいたBonnie McElihinny先生、Girish Daswani先生、Joshua Barker先生、またコーディネートの労をとってくださったShijo Satsuka先生に厚くお礼申し上げます。また、RAのNicholasさん、Rashaさん、Caitlynさん、Jenniferさん、Feliciaさんにも。

 そしてもちろん、引率のSteve Muller先生とGergely Mohacsi先生、また日本からこまやかなバックアップをしてくださった大塲先生にも、いまいちど感謝の気持ちをここに記しておきたいと思います。

 最後に、旅の仲間としてわたしがかたわらに在ることを認めてくれた、2期生のメンバーひとりひとりに、ありがとうと言いたいと思います。

(2015年5月14日, 高原)

Trip to Toronto #10 映画のこと

[写真8]だいたいこんなかんじでやっていました

 荷造りをしています。いまトロントは5月9日土曜日の23時です。こちこちと夜が刻まれてゆきます。昼間ナイアガラの滝を観に行っていた同室のXさんが、寝返りを打ちました。

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 昨日、研修の最終イベントであるwork shopが終わりました。まず私たちRespectの履修生が3グループに分かれて今回の研修に関する報告・質疑応答を行いました。

 第1グループは多文化社会において不可視化しうるマイノリティの問題を、日本における外国人教育の問題と比較・考察しました。

 第2グループは、英語の「Home」と、日本語の「住む」にはどこか共通点があるのではないか、という発表をしました。たまたま高原が今年の1月17日に「とよなか国流」で開催させていただいた哲学カフェの内容と、トロントの多文化主義の課題である「Home-making」が接点を持つというかたちになりました。

 第3グループは、トロントの多文化主義のシンボルとされるケンジントン・マーケットと、大阪の豊川地区でのRespectの活動とを比較考察しました。

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 Xさんに「高原の記事は日を追うごとに内容が薄くなっている」と言われてしまったので、今回はバナナやリスやゲロのことではなく、授業で学んだことをやや丁寧に紹介してみたいと思います。

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 work shopのあと、図書館でカナダ先住民族のResidental Schoolに関する記録映画”The Spirit of Sayt-K’ilim-Goot: One Heart, One Path, One Nation”を観ました。

 わたしは以前の記事で、カナダの多文化主義の歴史を紹介するとき、「先住民と揉めたり仲直りしたりしながら…」というように書きました。

 それは、間違っていた。「揉めたり、仲直りしたり」といった生易しいことではなかった。わたしは何も知らないまま無思慮に書いていた、ということです。

 映画の内容はきわめて「しんどい」ものでした。しかし同時に再生と回復、芽吹きの印象を強く与えるものでもありました。わたしはスクリーンから視線を外すことができませんでした。研修旅行の疲労とストレス、それから少しばかりの感傷が寄り募り昂っていた最後のタイミングで、この映画を観ることになりました。それは予想外の打撃をわたしに与えました。

 なぜ予想外だったのだろう、と今になって思います。つまり、「先住民についての記録映画」と言われて、わたしはなんとなく、人畜無害の娯楽作品を予期していたのではなかったか。歌と踊り、「エキゾチック」な民族衣装、紛争と和解、新たな多文化主義への歩み、というような。

 そうではなかった。

 いま手元に資料が無いのですが、Residential Schoolとはカナダ政府が先住民族(First Nationと呼ばれます)の同化政策のために作った「寄宿制」学校です。先住民族の子どもを親元から強制的に引き離し、故郷から離れた学校に集団で住まわせ、かれらを「西洋人」「キリスト教徒」に変質させるべく教育する。1930年代から80年代までこの政策は続けられ、のちにはカナダ首相が公式に政策の誤りを認め謝罪しました。

 子どもたちを親と故郷から切り離し、文化的精神的に「根こぎ」にするというコンセプト自体に目眩がします。しかしそれだけではない。配布された簡潔な資料によれば、衛生・栄養状態の劣悪さのため各地のResidential Schoolで合計4000人以上の子どもが死亡したことが確認されており、また学校内部での身体的・性的虐待も常のことであったということです。

 それは「揉める」「対立する」といった言葉で表現しうるようなものでは、おそらくなかった。双方が主体的なアクターとして振る舞いながら歴史のダイナミズムを織り上げてゆくような出来事ではなく、一方が他方の精神を矮小な正義の芝刈り機で轢き潰してゆくような「処理」だった。

 映画は、この学校に実際に入れられていた人々(Residential School Survivorと呼ばれる)が2011年に行った「Healing Journey」を追ったものです。

 旅は、かれらサバイバーが、廃校となったかつてのResidential Schoolに集まるところから始まり、かれらや、その学校に赴任したかつての教師の個別インタビュー映像が挟まれ、さいごに地元のFirst Nationのひとびととの祭りと会食が盛大に行われます。

 内容はただそれだけで、激しいストーリーや劇的な告白や感情表現といったこと無いにひとしい。そうした脚本は用いられず、カメラは旅の一行の表情を静かに追ってゆきます。

 学校は小さな湖畔の町にあり、一行がフェリーを降りると、船着場に地元のFirst Nationのひとびとが待っている。初めて出会う同胞たちが、保護と手当ての必要な傷ついた客人として敬意を持って出迎えられる(『風の谷のナウシカ』5巻で蟲使いたちの支族が集結するシーン、また7巻で土鬼の避難船が風の谷近くに難破漂着するシーンを思い出す)。

かれらが実際に入れられていた(入れられていた……どう表現すれば良いのだろうか。「そこで学んでいた」?違う。そこに「収容されていた」?「そこから生き延びた」?…「学校を生き延びる」とは、いったいどういう事態なのだろうか、と思ってしまう)学校の廃墟で、かれらが第一に言うことは、なにより、「わたしはここにいました」ということです。

 わたしはここにいました、と宣明することの決定的な意味。破断点。

 その空間は、かれらサバイバーにとってトラウマの震源地であると言えます。当事者がその空間に肉体を置きなおすことは、何を意味するのでしょうか。そこでは何かが再び痛々しく破断し、決して届かぬ取り戻せぬものをかろうじて涙滴が癒着しようとする。けれど同時に、その空間は、どうしても立ち戻らなければならない場所としてかれらに現れている。「わたしはここにいました」が「ここにいたのがわたしなのです」に転化する。個人の原点が暴力の記憶に据え付けられる。

 おそらくどのような種類の災害であれ、サバイバーは「グラウンド・ゼロ」に立ち戻ろうとするのではないか、と思いました。ニューヨークのツインタワー跡地であれ、原爆ドームであれ、神戸の東遊園地であれ、そこへ繰り返し回帰することが、もはや定言命法のように彼らの実存に組み込まれている。それはある種の巡礼に属することであって、もはや「なぜそこへ立ち戻るのか?」という問いが効かないような行為である。かれらサバイバーにとって、そこに繰り返し立ち戻ろうとするということ自体が「なぜ?」以前の下部構造を形成しており、むしろあらゆる「なぜ?」はその不断の回帰衝動の上に芽吹くものとなる。

 地元の先住民のリーダーあるいは祭司のような人が付き添い、おそらくは部族の伝統に従って、涙をにじませて教室の隅に立つサバイバーの体に、無言でお香の煙をふりかけていました。それは狭義の医療的な「治療」行為ではない。ましてや「癒やし」というもはやどこでも用いられている日本語でカバーできるものではない。それが何であるか私はうまく言うことができないけれども、そこで起こっていたことは、なにか治療や回復といったことを超えて意味のあることではなかったか。いわゆる「文化」(ここではFirst Nationにおいて護られてきたもの)とはそのために有るのではないか。

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 長くなりましたので、いったん稿を閉じます。わたしたちが学んだカナダの多文化主義はおおむねヨコ方向のもの、すなわち今おなじ時と社会を生きているさまざまな文化グループ同士の共存共栄を考えるものでした。しかし最後に見せられたこの記録映画では、タテ方向の問題、つまり記憶と歴史、暴力と和解という局面での多文化主義について考えることになりました。

(2015年5月10日, 高原)

Trip to Toronto#9 不安の明るい夜の底で

[写真7]メンバーの誕生日を開くことができました

 多文化主義/未来共生というテーマとほとんど関係が無いと思うのですが、ここに来てみてどうしても書きたくなったことがあります。

 それは緯度のことです。

 トロントの緯度は大阪に比べて高い(北極側に近い)。大阪市の緯度がおよそ北緯34度であるのに対し、トロントの緯度はおよそ北緯44度。日本でいえば旭川と同じくらいだそうです。

 緯度が高いほど、夏は昼が長く、冬は夜が長くなります。大阪から来た私たちにとって、トロントの日没はとても遅く感じます。5月初旬の今、日本では18時ころから「夕方」に入りますが、ここトロントでは20時でもまだ明るい。

 このことは、単なる「時差ボケ」以上に私たちを苦しめたように思われます。「お腹が空いているのにまだ外は明るくて時計を見るともう20時、アレェ?」という体験を何度もしました。ジェット・ラグならぬサンセット・ラグがあるのです。

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 日没の時刻だけが違いではありません。もっとなにかが違うのです。強いていえば、空が暮れてゆく色合いが違う。

 というか、「空が【暮れる】」という表現自体が合わない気がします。【暮れる】は【暗くなる】ですが、蛍光灯を消灯して部屋が暗くなることではなく、【赤くなりつつ、暗くなる】ことであり、日本語ネイティブにとってはどことなく「葉が枯れて紅くなって散る」こととイメージが通底している。それはまた【滅び、衰退、消失】などのニュアンスも含んで、「年が暮れる」「途方に暮れる」などの表現を可能にする。この点で【暮れる】は【終わることを匂わせつつ、終わりへの意味を含んで終わる】ことである。芝居の幕引けで使われるタイプの「夕焼け」のイメージは、この「意味ありげな暮れなずむ空」である。『風と共に去りぬ』の冒頭のシーンでスカーレット・オハラに父親が「このタラの地はみんなおまえのもんだ」と言うシーンのジャジャ~ンとした夕焼けがこれです。あれは緯度の低いアメリカ南部だから生じうる「真っ赤な夕焼け」であって、仮に舞台がトロントであればあの夕焼けのシーンは生まれ得ない。

 トロントの日没は夕暮れや夕焼けではない。わたしが滞在している期間だけのことかもしれませんが、トロントでは、青空のまま天球全体がじっくりと暗くなってゆく。そこには緯度だけでなく湿度や風の早さといったことも関係があるように思います。透明度。空が暗くなってゆくとき、夜の闇が上から垂れ込めてくるのではなく、逆に、街の方が宇宙へ向かってせりあがってゆくような感覚があります。

 ゲオルゲの詩の中に「早くも/差し交わす枝々のかなたに/至幸の野と/星々の都市が現れる」という一節がありますが、トロントの夜更けはこの「星々の都市が現れる」イメージに近い。

 一方、『バガヴァット・ギーター』に「万物が眠る夜、自己の感官を制する賢者は目覚める。万物の目覚めは、見つつある賢者の眠りである」という一節がありますが、この湿度を含んだ夜のイメージはトロントの夜と正反対であるように思われます。

 上方では大気がなめらかに光を剥ぎ取られてゆくのに対し、繁華街では光と音とが増えてゆきます。それは天の静けさと暗さが深まってゆくのを少しずつ補うかのようです。レストランや酒場には人があふれ、狭い往来で露天商が仲間と笑い、交差点のそばで金管楽器が煌めきます。夜を楽しむ、という文化があるのだと感じました。

 日本の夜の繁華街はまた異なったトーンがあります。緯度の違いは夜の過ごし方の違いとして現れます。それは当然の現象ですけれども、地球全体、宇宙全体のサイズから見ればほんのちょっとの住んでいる場所の違いなのに、ここまで大きく変わるものかとふと驚かされます。

 来てみて初めてわかったことのひとつです。

(2015年5月9日, 高原)

Trip to Toronto #8  中間的感想

 カナダにおける「Multiculturalism 多文化主義」と日本における「共生 Co-Existence」の違いや共通点を見出し、お互いに学び合うことが、今回のわたしたちの研修の基礎的な問いです。

 ではけっきょくMulticulturalismとは何なのか。

 わたしが講義や現地調査を通じて(その狭い範囲で)強く感じたのは、カナダで言われるMulticulturalismはきわめて実践的なこと、制度的なこと、立法にかかわることである、ということです。

 講義に参加していても、現実の問題をケース・スタディとして議論のテーマとして提示し、その解決策や、ケースから見いだされたより一般的な論点を列挙させ、おのおのの持つアイデアやその背景にある「多様性」への理解を互いに討議させます。

 講義での議論は抽象的なレベルで行われますが、つねにかならずその抽象的議論を具体的な施策に落としこむという感覚がある。だからこそ、講義で学んだ内容が「施行」された場所として再開発地区などの現地学習が可能になるとみなされている。

 だから、授業に参加しながら、理想や未来を語り合っているというよりは、どことなく日本で言うところの「税制」の実務的議論をしているような気持ちになります。

 とはいえ、Multiculturalismへの愛というか誇りのようなものも講義を持っていただいた先生方から強く感じます。

 かれらはしばしば、アメリカは多文化といってもMelting Pot(坩堝)でAssimilation(同化)を強いるが、我がカナダはSalad Bowlであり、同化でなく個々の文化を尊重するIntegrate(統合)を目指しているのだ、と言います。

 Multiculturalismはカナダの国是であると言えますが、手放しでそれを褒めるのではない。Multiculturalismが逆に人種主義を増幅し隠蔽しているのではないか、多文化主義がネオ・リベラリズムに乗っかってしまっているのではないか、Super-multiculturalismとでも呼ぶべきものを模索すべきではないか、といった議論を積み重ねている。

 ここらへんのノリは、強いて言うならば、日本の憲法9条をめぐる議論と似ているかもしれない。

 たとえばカナダでは移民の受け容れ規定を経済的・理念的な理由により戦後何度か大きく改訂しています。植民と移民(そして先住民との対立・和解)によって成り立ってきたカナダという国家にとって、移民に関する法律を改正することのインパクトは、たとえば日本におけるカンボジアPKO派遣をめぐる議論や、有事法制・集団的自衛権をめぐる混乱のそれと同種のものではないかと感じます。
 
 以上は「研修」を通じての高原の中間的な感想です。街を歩いていて感じたMulticulturalismの感想については、稿を改めて述べたいと思います。

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 最後に、2期生の波田野です。怒涛のトロント研修が終わろうとしています。長期の集団生活にも慣れてきました。(やっと)

(2015年5月6日, 高原)

Trip to Toronto #7  女王様の園で

[写真6]公園からの帰り道、朝7時

 朝の散歩にゆきました。6時半ごろホテルを出て、東へ顔を向けるとビルとビルの隙間から曙光がまっすぐ瞼を照らします。まばたきの中で額と頬、くちびるが強ばり、温まり、既に頻繁に往来している通勤の自家用車の間で、わたしの顔はふちどりを取り戻します。

 Bloor通りを東へ少し歩き、Quenns通りとの交差点を右に曲がると人類学博物館や美術館が立ち並んでいます。法学部の新しい建物が建設中です。淡いオレンジ色(日本ほどカラフルではない)に染められる博物館の石壁を右手に眺めながら南下すると、Queens Parkという公園にたどりつきます。英語で「クイーンズパーク」と言うとなんともブリティッシュなかんじですが、「女王様の園」と訳すとSMクラブっぽいなと思いました。

 公園には樫やメープルの木が枝をゆっくり広げていて、そのまわりを黒いリスがせかせかと走り回っています。私たちが歩き回っている範囲では、トロント市街にはカラスと猫が全くおらず、そのかわりリスが街路樹の周りにたくさんいます。

 このリスたちは、かわいいけれどちょっとキモいです。日本で一般的にイメージされるリスより二回りくらい大きい。樹の幹を頻繁に昇り降りしているからか、前脚の筋肉が隆々としていて、真正面から見ると肩のあたりはかわいい小動物というよりワニやトカゲのようです。地面を走るときは、両前脚を同時に着地させます。犬や猫のような走り方はしません。ぴょこん、ぴょこん、立ち止まり。ぴょこん、ぴょこん、立ち止まり。どちらかというとウサギの走り方に近い。雪が積もるからでしょうか。

 歩道沿いの地面にはアリの巣もありました。日本のアリより色が薄く、すこし臆病な性格に思えました。気温が低いからか、動きがあまりせわしなくありません。のったりのったり、巣穴の周りでゆっくり仕事を始めているかんじです。日本のアリは、もっとクリンクリンと動きまわります。

 いまから最後の講義が始まります。

(2015年5月6日, 高原)

Trip to Toronto #6 しっとりスプリング

 雨が降りました。教室を出ると石畳が黒く濡れて、大気のトーンが切り替わっていました。顎を空に突き出すと、ふっと肩と眉間の奥のしこりが溶けてゆくような感覚がありました。ぴんと張った空の弦をだれかがそっとゆるめたみたいでした。そのあと幾秒ずつの間隔を置いて小さな水滴が頬になんども触れました。

 トロント研修はちょうど全日程の折り返し地点に達しました。郊外へのフィールドトリップ(現地調査)と教室での授業を交互に受けています。フィールドトリップは強行日程です。なぜかスクールバス(アメリカのホームドラマでよく出てくる黄色いアレ)で移動します。席が狭くて座りづらく、サスペンションがへたっており、郊外は車道のアスファルトの手入れが悪いので、座席がぐんこぐんこと上下に激しく揺れます。

 再開発地区では実際に街を歩きながら説明を受けるのですが、ちょうど立ち止まったところがゴミ箱のそばだったため、ずっと生ゴミの臭いがしていました。Nさんが「ゴミ箱の中にだれかがゲロ吐いたんじゃないかと思います」とさらっと言いました。

 低所得者層住宅街では現地の無料求職誌をゲットしました(日本の「タウンワーク」みたいなやつです)。腰をかがめて求職誌をポストから取り出す高原の姿は、なんとも言えず哀愁漂うものだったそうです。

 First Nation(先住民)の文化に触れるフィールドトリップでは、バスの中で先住民の青年にウサギの毛皮を触らせてもらいました。さらりすべすべというかんじで柔らかく暖かく、みんな楽しそうでしたが、いま考えるとオリエンタリズムの傾向が無いでもない。

 私たちが宿泊するホテルはトロント大学のすぐそばで、少し歩くと瀟洒な観光街に行くこともできます。RAのニコラスさんが「トロントの、ギンザみたいなものですね」と日本語で説明してくれました。トロント銀座の逆方向に歩くとスーパーやコンビニ、飲食店があります。陽が沈むと、物乞う人々がどこからか現れて歩道に腰掛けます。目を合わせないようにして通り過ぎると、たまに何かを叫びます。ビクッとします。

 歩道の端に、直接地べたに座り込むと、視線は下から上に伸びます。170センチの眼の高さから見下ろしている私の視界とは、自然とパースペクティブが異なるはずです。かれら・かのじょらの眼には、なにがどのように映っているのだろうかと思いました。

(2015年5月4日, 高原)

Trip to Toronto #5 三界は火宅みたいなButメトロでGO

[写真5]市電

 日本から持ち込んだ宿題が終わらず、ホテルでもがいています。他のメンバーもそれぞれの事情でのたうち回っているようです。

 おおげさなようですけれども、三界は安きことなし、なお火宅のごとし……という言葉を思い出します。私のこの生はまるで火事の家の中にいるようであり、それは私がこの世に生まれる前の生も、死んだ後の生でも同様である、という意味かと思います。私はこの一節をものごころ付いたときに聞いていました。母の膝の上で、母の母の法要の読経の際に聞いていました。

 このお経を聴くのはつねに母の実家でのことで、そこには地下鉄で行きます。だからいまでも、地下鉄に乗ることと、お経を聴くことは私のなかで分かちがたく結びついています。

 ロンドンで何度となくチューブに乗っていたときも、ここトロントで地下鉄に乗ったときも、アルファベットの駅名表示を見ながら「火宅のごとし…」と思いだしていました。(ちなみにトロントの地下鉄はトークンというとても小さなコインを切符代わりに買って使います。)

 夜が明けたら、ペンテコステ派の教会に現地調査に行きます。トロントのペンテコステ派の信者は西アフリカ・ガーナ国から来た移民のひとびとだそうです。同派の預言者が海を越えた西の地に救いがあるとひとびとに伝え、じっさいに多くの信者がカナダに渡り、移民先で教会を作りました。1980年ころからのことです。

 ガーナのペンテコステ派の信者たちも、やはり火宅にいたのかもしれません。ガーナ共和国は60年代から80年代始めにかけて軍事政変を繰り返していました。キリストと共に在りつつも、故国で生きることは火宅に住むことのようであり、カナダに来てもまたさまざまな新たな苦しみが待ち受けていたことは容易に想像ができます。

 ペンテコステ派の礼拝はゴスペルとダンスが中心だそうです。それぞれのもつれに苦しむ私たちも、三界の中心で歌い踊るひとびとの中に混じってみたいと思います。

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 前回の続き。初日の授業のあと、RAのニコラスさんに大学を案内していただきました。ニコラスさんは日本の「父親」政策(最近はやりの「イクメン」とかのアレ)を研究している好青年です。

 トロント大学は街の中にあります。キャンパスと市街を分ける柵などはありません。いつのまにか大学構内に入っています。

 大学の建物はみなこじんまりしており、かなり古そうなもの(正直なところハリー・ポッター感すごく強い)と最新のガラス張りの校舎が入り交じっています。

 おそらくトロント市街全体に言えることですが、建物のサイズと、建物同士の間隔が絶妙なゆるやかさを保っており、歩いていてなんとも心地が良いです。

 集団でうろうろ迷っていると、二度ほど学生らしき人に声をかけられました。親切。

 よくわからないのは、ユニバーシティとカレッジの関係です。「カレッジ」はおおよそ日本の「学部」にあたり、ユニバーシティがそれらをまとめる上位構造なのかと思いましたが、どうもそうとは言い切れないらしい。帰国したら調べ直したいとおもいます。

 緯度が高いせいでしょうか。うまく説明できないのですが、太陽が沈んでゆくと、陽が真横から照りつけてくるように感じます。おおげさに言うと、顎の下から「照り上げて」くるかのようにさえ感じます。

(2015年5月2日, 高原)

Trip to Toronto#4 Lots of Sun, High clouds.

[写真4]トロント市街の再開発事業について説明を聞く

 今日から授業が始まりました。コーディネーターを務められるShiho Satsuka先生によるオリエンテーションのあと、RAの院生三名がそれぞれの研究を紹介し、Bonnie McElhinny先生が「カナダにおける多文化主義と植民主義の歴史の概観」という題目の講義を行いました。

 Shiho先生の言うことは、諸君がカナダの多文化主義について学ぶだけでなく、私たちが諸君らの視点から学ぶことが多いと期待するものである、ということでした。ただ学んで帰るのではなく、あなた方自身が私たちにコントリビュートせよ、ということです。

 みなさん早口でごごごごがーっと話すので、わたしは理解がまったく追い付きませんでした。ストロボ写真の連写のように提示されるMulticulrualismの諸課題。

 大切な話ほど、ゆっくり語ってほしい。なにが何を押し退けているのか。なにが何をだまらせているのか。どんな人のどんなことが看過されていて、決めつけられているのか。

 Bonnie先生の講義の中でわたしがハッとさせられたのは、そもそも「土地」についての感覚が非常に異なるのではないかということでした。カナダやアメリカ合衆国の場合、入植時代には未開拓の土地が文字通り見渡す限り広がっていた。大地とはとにかく広いものだった。そこは無限に入植者を吸収する場所だった。日本の場合(あるいはおそらく韓国や上海も)、土地とは人々がそこにぎゅうぎゅうと寄り集まって住まざるをえない「寸土」である。

 したがって日本においては、肩を寄せあって干渉しあい監視しあいながらなんとかお互い共に生きてゆく、ということを出発点として、「共生」の方途を探らなくてはならない。そこではしばしば「折り合いを付ける」という表現が使われるけれど、この「折り合い」という表現をどう英訳すればよいか困ってしまう。おそらくこの表現の裏には上述の「向こう三軒両隣のぎゅうぎゅう感」が少なからず存在していて、このニュアンスがわからなければ「折り合い」ということばも伝わらない。

 一方、北米の入植者たちにとって問題となったのは、いかにしてこの大地を切り拓き、じぶんの住む場所を確保するかということだった。植民者達は過酷な自然にあらがうために助け合わなければならないけれども、それぞれの得た場所で何を考えどのように生きるかは自由だった。空間的なキャパシティは多様な文化の並立と共存を許した……と言うと単純化がすぎるかもしれないけれど、少なくとも日本とは出発点が違う。

 実際のところ、たとえばアメリカ独立戦争でイギリス側に味方したアメリカ人(かれらはロイヤリストと呼ばれた)は、独立派が勝利したあと、カナダへ逃げ込みそこに住み着こうとした。だれかが逃げこんできたら、じゃあここらへんに住んでたらいいよ、と言えるスペースが有り余っていた。これが日本であれば、「賊軍」はどこへ逃げてもけっきょく逃げ切り隠れきることはできない。水戸の天狗党しかり、新選組しかり、義経しかり、西南戦争の士族しかり、さいごには追い詰められてハラキリさせられるのがオチであって、それぐらいならいっそ敵陣に潔く白刃斬込をかけて散華の美を飾ろうということになる。

 ハラキリや破れかぶれの斬込がなぜ「潔い」のか実はさっぱりわからないのだけれど、狭い土地で譲り合って生きていくことができなければ、内に向かう敵意は内部浄化というかたちをとる。このことと、ファシズムがしばしば「清潔さ」と結びつくことは無縁ではない気がする。「美しい日本」とはしばしば「あいつらのいない清潔な町」を意味するだろうし、「共生co-existence」はこの清潔志向への反発として存在する。一方で、「多文化主義Multicuturalism」は清潔さへの葛藤を出発点とするのではない。かれらの出発点はTerra incognita(未開の地)である。

 などと考えていました。午後には大学の案内をしていただきました。長くなりましたので、いったん文書を終えます。

(2015年5月1日, 高原)

Trip to Toronto #3  そんなに寒くなさ・オブ・トロント(*´ω`)

[写真3]トロント大学のロバーツ図書館

 12時間のフライトを経てトロントに着きました。Canada Airlineの機長は英語とフランス語の両方でアナウンスをします(フランス語はなぜか早口感がある)。空港内の案内表示も全て英語とフランス語の両方で表記されています。売店でジンジャエールを買うと店員さんに「サンキュー」ではなく「メルシー」と言われてドギマギしました。しかし別にメルシーでもなんでも、たいてい私は何か言われるとドギマギしている。

 日本の2月ぐらいの気候だと脅されていましたが、そこまで寒さは感じません。日本のじっとりとした冷え込みよりも、空気の透明さ。首筋がそっと毛羽立つかんじ。陽があれば、上着を一枚羽織ってマフラーを巻いていれば大丈夫です。街路樹の枝先には小さな芽が伸びかけています。

 空港からホテルにバスで向かいますが、道路沿いに高い建物がほとんど無い。おおむね3階建て。日本のように都市が上に伸びていない。水平方向に薄く広がっている。

 人通りは比較的あるけれど、ごったがえすというかんじではない。道と建物の間隔、建物と建物の隙間の程度が心地よい。ぴったりぴったり足を地面に置いて歩く犬。

 教会や図書館など古い建物はみなレンガ作りで、赤茶けた灰色をしています。細い蔦を壁に這わせている建物もあります。教会のステンドグラスは小さくて地味です。商店も公共の建物も、ごてごてぴかぴかしたかんじがあまり無いことに好感を覚えます。
 
 ホテルの目の前に24時間営業のスーパーがあります。客がクレジットカードを機械に挿しこむのですが、はじめカードの向きを間違えてしまった。「大丈夫ですよ、たまにうまく動作しないこともあるんです」とレジの店員さんが親切に教えてくれました。

 「ロンドンの店員とくらべてすっごい親切ですね」と引率のモハーチ先生に言うと、「イギリスと比較すればどの国も良いサービスになるよ」と笑われました。

 困ったのは、ホテルの無線LANが使いにくいことです。回線が貧弱で、部屋からはメールの送信さえ満足にできない。昨日のレポートを平尾先生に送るのも難儀しました。
 明日はいよいよ授業が始まります。

(2015年4月30日, 高原)

Trip to Toronto #2 Fly me to the Earth

[写真2]カナダの郵便ポスト

 羽田でトロント行きの飛行機を待っています。

 J君に生八つ橋をもらいました。Oさんが「家に腐りかけてたやつがあったので持ってきました」とバナナをほおばっています。高原はHさんに茶碗蒸しを譲りました。とりとめのない会話が林の陽だまりのように生まれて消えます。もう少しとりとめの有る会話もすべきかもしれませんが。

 今回の小さな旅のわたし自身の小さな目的は、なにかに揺さぶられることです。

 わたしの故郷にわたしは慣れきっています。わたしはおおむね自分の街のかたちに沿って生きることができます。街のかたちは、街のかつての歴史に裏打ちされています。街と、そこに住む人は、自らを鋳型としてお互いを相互にかたちづくります。この街には雰囲気がある、と私たちが感じるとき、私たちは街になにかが積み重なりつつある場面に遭遇しています。街に根付いて生きるとき、人は、街のあちこちの襞に染み込んだ小さな出来事の無数の積み重ねを吸い上げつつ生きています。そこに根付いて生きながら、私たちは街に形成され街を形成します。きっと、市街=内=存在として生きることと歴史=内=存在として生きることは別々のことがらではない。

 ところが、旅は、その慣れからわたしを引き剥がします。わたしは投げ込まれます。新しい街で、そこに道があり建物があり店があることを理解しながら、それらに活き活きとしたものを与えている何か、「まちなみ」などと呼ばれて当然存在するかのように思われている何か、どうにも名付けられないそれが確かに在ることを感じ取りながら、わたしはそれが何であるかはっきり嗅ぎ分けることができません。旅先の街の雰囲気に新鮮なものを感じながら、なにが、なぜ、どのように新鮮であるのか、捉えることができない。わたしは旅先で、なんとなく、異質です。

 ところがその異質さ、まさしくalienなかんじは、わたしに思わぬ揺さぶりを与える条件でもあります。

 わたしが揺さぶられるとき、それが何であるかをつきとめぬまま、そのものの方からそれが私に突き刺さってきます。それは私がまえもって指定できないもの、そこに立ち止まるよう私に強いるものです。パリの小さな橋の基部に据えられた、対独レジスタンスの落命者の名前を刻んだ銅板。つるつるぴかぴかしたワイキキの複合商業施設の下に音だけが存在する、すでに絶たれたハワイイ語の地名のかずかず。自らとルーツを同じくする移民たちの生きように打たれて静かにみずからを問い返す壮年の教師のすがた。ロンドンの無名戦士墓の前で立ち尽くす湾岸帰還兵のしずかな声。津波に冠水した公園を埋めるシロツメクサに泊まるハチ。空に絡みつく森に登れば登るほど目の前に迫る室戸岬の海。こうしたものごとはその瞬間にわたしを揺り動かし、ことばを失わせ、これまでの生き方ではこの出来事をまったく理解できないと悟らせる。その後の記憶においてもくりかえし行き戻る余震となって新たな反芻と解釈を求めます。

 それは歩き慣れた街ではむしろ見つけにくいものかもしれません。何を見つけるべきかさえわからない不慣れな旅先で、じぶんをゆりうごかす出来事に出会えたらなあと思います。

(2015年4月30日, 高原)

Trip to Toronto #1 夜更けの荷造り

[写真1]大阪国際空港の出発ロビーにて

 こんにちは。これから私たち2期生13名は、カナダ・トロント大学へ2週間弱の研修にゆきます。

 13名のうち、4名が人間科学研究科、3名が言語文化研究科、1名が医学系研究科、2名が同保健学専攻、1名が法学研究科、1名が国際公共政策研究科、そしてこのレポートを書いている高原は文学研究科に所属しています。13名のうち4名が留学生です。

 夜に荷造りをしました。静かな23時です。折り畳み傘、レインコート、デジタルカメラ、ICレコーダ、USBケーブル、USBメモリ、MacBook Air、その電源コード。非常食、使い捨てコンタクト15日分、メガネ、使い捨てマスク、ポケットティッシュ、髭剃り、爪切り、鼻炎カプセル、バファリン。航空券、パスポート、旅行保険証、カナダドルと日本円。いつもの筆記具、アルスター用のインク、スティック糊、ノート。部屋着、肌着、シャツとセーター、ズボン。トロントはいま日本の2月くらいの寒さだということで、ユニクロのダウン、丸めることができるやつ。それから手袋とマフラー。資料類、書籍…木村和男ほか『カナダの歴史』、村上靖彦『レヴィナス 壊れものとしての人間』、フッサール&ハイデガー『ブリタニカ草稿』。iPhoneとBluetoothヘッドホン。タオル数枚と、ハンカチ多め。現地で日本に向けて手紙を書く時間があればいいなと思いました。

荷造りをしてみると、スーツケースがいっぱいにならなかった。なにか入れ忘れた物があるんじゃないか、と思いました。なにかがさびしい。こちこちと夜が更けて、荷造りが終わります。

 わたしたちの目的は、カナダの多文化主義(Multiculturalism)を現地トロント大学での講義で学び、また、その主義の有り様をじかに理解することです。カナダという国は、フランスとイギリスがケンカしてゆくうちに成立した国です。あるいは、もともとその地に住んでいたインディアンや、先に独立したアメリカ合衆国やイギリス本国と揉めたり仲直りしたりしながら、戦後はヨーロッパ以外からも移民を少しずつ受け容れながら、形作られてきた国です。

 そのような歴史を持つ国で鍛えあげられてきた「多文化主義」の現実をわずかなりとも理解することで、わたしたち自身の在り方や、私たち自身の街や社会や組織や国の在り方をより深く理解できるようになること。これが、さしあたり私たちに求められていることだと思います。

 そんなことできるのかなぁと思ってしまう。

 あまり肩肘張ったカッコイイお題目を書きすぎると、足元をすくわれるかもしれません。まずは、そのときその場所で触れ得たものごとを、すなおに楽しみたいとおもいます。

 トロント研修の様子を短報でお届けします。

(2015年4月29日, 高原)

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