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活動報告

宮前さんのインドネシア・海外インターン日誌(2期生「海外インターンシップ」)


 未来共生プログラムの3年次に履修生は海外の現場、国際機関などで比較的長期のインターンシップに従事します。現在、2期生が世界各国の様々な場所に派遣されていますが、宮前良平さん[人間科学研究科・博士後期課程1年]がその様子を現地からレポートしてくださいます。宮前さんは2016年10月10日から2017年1月10日の3ヶ月間、インドネシアのジョグジャカルタにあるガジャ・マダ大学の国際関係学部でインターンとして働きます。宮前さんから届いた記事をオンタイムで更新できればと思います。以下、宮前さんからの報告です。

海外インターン@インドネシア #20

[写真]帰りの飛行機

 だれもいない部屋に向かって、おそるおそる「ただいま」と言ってみる。もちろん返事はない。このことは、特にめずらしくはないし、慣れているはずなんだけど、3ヶ月ぶりの帰宅ともなるとやけに他人行儀になってしまう。

 日本が今年一番の寒波に襲われた朝6時15分、僕を乗せた飛行機が着陸した。インドネシアは30度超えだったが、日本はマイナス2度。吹雪いていた。インドネシア用の薄着しか持っていなかった僕は、白い息を吐きながら、幾分か後悔した。

 自宅に到着し、荷物をしまい、髪の毛を切りに行ったり、牛丼を食べに行ったり、まだガスが開栓されていなかったため、近くの温泉施設にお風呂に入りに行ったりした。雪を見ながら露天風呂に浸かり、「このなかで昨日まで赤道直下の国にいた人はいないだろうなあ」と謎の優越感を心に秘めたりもした。

 夜9時をまわり、家に帰ると、夜の静けさが身にしみた。冬の夜は、こんなにも静かだったっけと思った。コーランを唱える声が聞こえてこないことも、どこかよそよそしく感じた。

 そうやって、ぽつねんとしていると、時計の針の音が、やけに大きく聞こえてくる。出発当日に電池を変えた時計だ。この3ヶ月間、誰もいない部屋で正確な時を刻み続けていた。針が何周回ったのだろうか。そして、僕は、その間、インドネシアに行っていた。時間の重みがようやく感じられた。帰ってきてしまったんだなと実感した。

 そういえばまだ帰国の連絡を入れてなかったと思い、現地のスタッフにメールを入れる。ちゃんと届くし、返信も来る。ほっとする。また、ジョグジャカルタに行こうと不意に思う。つぎは、ただただゆっくりと旅行でもしようかな。

(2017年1月17日, 宮前)

海外インターン@インドネシア #19 お別れ

 インターンが終わりに近づくにつれて、最期の○○が増えていく。今日は、最期の出勤日だった。スタッフがFarewell Partyと称して、しゃぶしゃぶ屋さんに連れて行ってくれた。インドネシアでも最近は、日本料理屋が増えてきているが、しゃぶしゃぶ屋さんは初めて見た。お肉以外は、食べ放題で、野菜もたくさんおいてある。値段は1000円くらい。しゃぶしゃぶの出汁もいろいろ選べて、Haniは、すき焼き風+生卵を選んだが、「生卵どうやって食べるの?えっ、そのまま!?ムリムリムリムリ」と言って、結局卵をすき焼き風割り下の中に入れて巣ごもり卵にして食べていた。たしかにインドネシアの卵を生で食べるのは、勇気がいる。それ以外にも、「しゃぶしゃぶってどうやって食べるの?」とおそるおそる食べるスタッフたちの姿は、微笑ましいものがあった。お別れ会だなんてすっかり忘れてしまうくらいには。

 もう一つ、お別れがある。インドネシアでの生活中、ずっとお世話になっていたクリーニング屋の親父だ。一回100円くらいで僕の洗濯物を洗濯してくれていた。おちゃめな親父で、ジャワ語のありがとうを教えてくれたのも彼だ。で、今日がジョグジャ最後の夜だから、洗濯物を取りに行くついでに別れのあいさつをして、記念撮影でもしようかと思っていた。しかし、いざ行ってみると、今日に限ってなぜか親父ではなく息子?らしき人が店番をしていて、初対面だったからどうもぎこちなく、別れを切り出すこともなく、すごすごと帰ってきてしまった。ということは、一週間ほど前、変顔をしながら「じゃあね」とやりあったのが、最後になってしまったということだ。さよならのない別れになってしまった。

 だからいま、こうやって最後の日、荷造りをサボって、コラムを書いている。このコラムが親父に届くわけないけれど、それでも「さよなら」を書かずにはいられないのだ。Wikipediaで調べたから間違っているのかもしれない。Sumonggo, sugeng kepanggih malih. ではまた。

(2017年1月13日, 宮前)

海外インターン@インドネシア #18 元日

[写真]何の変哲もない日曜日の午後

 インドネシアの祝日は、宗教的なものが多い。と書くと、イスラム教は、お祭り好きねとか、そういうふうにイスラム教=休みたがるみたいな感じで邪推される人もいるかもしれないが、それは全くちがう。インドネシアで宗教関連の祝日が多いのは、いろんな宗教の記念日を全部祝日にしているからだ。

 だから、インドネシアでは、旧正月も休みだし、断食月明けも休みだし、クリスマスも休みだしということになる。よりどりみどりだ。休みの日が好きというのは全世界共通だから、平和だ。すばらしい。高校の時、英語の先生が「アメリカ人の休み好きはガチ」と言っていたが、思えば日本人だってそのあたりは「ガチ」だ。でも、「海の日」とか「山の日」とか「みどりの日」が休みになる日本よりは、説明がつきやすい。

 だからなのか、でもなのか、正月は、元日以外平日だ。大晦日も平日だった。三が日という概念はない。典型的な日本人であり、年末年始は、1週間は休みたくなる僕は(いや、成人の日までは休んだりするから、2週間くらいぼーっとしているのか。こわい。)、少々面食らったが、郷に入れば郷に従え。従って、1月3日から無事に仕事をしている。

 年越しの瞬間は、部屋でゆっくりテレビを見ていたが、11時くらいから、そこらじゅうで花火が打ち上がる音が聞こえる。ほとんど銃撃戦というレベルだ。怖くなってよけいに外に出られなくなった。テレビでも打ち上げ花火が映されている。そして、元日にぶらりとサイクリングをしてみると、正月らしさは無い。いつもと変わらぬ休日という感じだった。

 ぶらりとサイクリングをするつもりだったのが、ミスチルを聴きながら自転車を漕いでいたので、思ったよりも遠出をしてしまい、13キロくらい走った。こういうのは、たいてい帰り道で猛烈に後悔するわけで、汗だくになりながら部屋に帰ったときは、ミスチルのせいで・・と思ったものだ(でも、心のどこかではミスチルに感謝している自分がいる)。

 というわけで、筋肉痛になりながら、1月3日からこうやってコラムを書いている。ほんとは仕事をサボっているだけというのは秘密だが。

(2017年1月5日, 宮前)

海外インターン@インドネシア #17 スマトラ

[写真]津波博物館前にて

 2004/12/26。この数字列を見てピンとくる人は、どれくらいいるだろうか。いまから12年以上前の日付を何らかの意味を持って思い出すのはむずかしいかもしれない。当事者でなければなおさらだ。2004/12/26は、スマトラ島沖地震津波の発生日である。そして、当事者ではない僕は、Wikipediaを見るまで、その日にちを忘れていた。

 インドネシアでインターンシップをすることになって、最初に思いついたのは、スマトラに行くことだ。そして調べてみると12周年の日がちょうどインターンシップ期間中にやってくる。こんな機会はないと思い、スマトラ行きを決めた。

 12月25日、僕は、津波の主な被災地のひとつであるバンダアチェに着いた。バンダアチェは、僕のいるジョグジャカルタから遠い。飛行機を乗り継いで約4時間。もはや海外旅行の気分だ。空港に着くと、現地の案内をしてくれるAkmalさんと出会う。僕は、縁あってとある私立学校のゲストハウスに泊めていただくことになったのだが、そこのアラビア語兼イスラム教の先生だ。年は20代後半くらいだろう。彼には、アチェコーヒーの美味さから、津波博物館まで広く案内してもらった。

 12月26日は、諸事情によって津波博物館などに行けなかった。塚本先生と現地防災対策局の会議が、予想以上に長引いたためだ。だから、僕が津波博物館などに訪問したのは、2016年12月27日という、すこし的はずれな日になってしまった。しかし、だからこそ、記念日特有の祝祭感みたいなものが排除された素のバンダアチェを見ることができたような気がする。

 12月27日の津波博物館は、静かだった。平日の午前中ということもあるのだろう。館内は、親子連れが数組いるだけで、外国人観光客の姿もなかった。Akmalさんは、『まあこんなもんだよ』というようなことを言っていた。館内に入ると、一方通行の螺旋状のスロープがある。100メートルほどかけて一周して地下に潜ると、そこには、直径五メートルほど高さはゆうに10メートルはありそうな円錐状のドームがあった。壁面に文字がびっしりかかれている。Akmalさんに聞くと、『これはバンダアチェでなくなった人の名前全てだ。20万人くらいかな』と言う。そして、円錐状のドームの天井部分から地上の光が入り込み、薄暗い空間を、優しく照らしだす。天井には『私たちの神』をあらわす言葉が書かれている。それは、イスラム教の国における祈りの空間だった。

 日本の博物館は、祈りとしての機能を果たす部分が少ない。博物館と追悼碑もしくは犠牲者を祀る寺社は、別々になっている場合がほとんどだ。僕もそういうつもりで、津波博物館に行ったから面食らった。いや、率直に言えば、津波博物館は、博物館的な展示がほとんど無く、博物館というより本当に追悼施設だった。

 被災地の真ん中に復興の象徴として何を建てるのか。生き残ったわれわれだけでは、決めにくい。

(2017年1月3日, 宮前)

海外インターン@インドネシア #16 誕生日

[写真]鮨亭にて

 いきなり私事で恐縮なのだが、12月18日は、僕の誕生日だった。日本以外ですごす自分の誕生日は、初めてだった。と言っても、18日は日曜日で、しかも特に誰とも会う約束をしていなかったので、誰かに祝われるということも無かった。Facebook経由で送られてくる「誕生日おめでとうございます」への返信を考えていたら、だいたい一日が終わったと言うような感じだった。

 翌月曜日は、日本から塚本先生がやってきたので、ジョグジャで一番美味しい日本食レストラン鮨亭に連れて行ってもらった。オフィスのスタッフも全員連れて、と言っても僕と塚本先生含めて6人しかいないのだが、久しぶりの豪華な夕食になった。

 さて、お腹いっぱいになったというところで、じゃあデザートでも頼もうかという流れになった。え!デザートも!いいんですか!いぇーい!(言い忘れたが、全部塚本先生のおごりである)とワクワク気分でメニューを眺めているとうしろから突然「Happy Birthday!!」と言われた。最初なんのことやらわからなかったが、「あ、これ、サプライズっていうやつだ」と思い至ったとき、すでに目の前には、お寿司のバースデーケーキと、大きな本物のバースデーケーキがどかんと置かれていた。スタッフたちが僕には内緒で(塚本先生にも内緒だった)計画してくれていたのだった。

 こういうとき、僕は、自分のあまのじゃくな性格が恨めしい。素直に喜べないのだ。喜びを表そうとしてもどこか気の抜けた感じになってしまう。こんなに嬉しく思ってるんだよということをちゃんと伝えられないのだ。ああ、なんと損なことだろう。だれか、うまい感情の表し方知りませんか?

(2016年12月23日, 宮前)

海外インターン@インドネシア #15 ジャワ語

 インドネシアは、共通語としてバハサ(いわゆるインドネシア語)という言語があるが、日常会話では現地語を使う人が多い。ジョグジャカルタはジャワ島にあり、ジャワ島の人は、ジャワ語を使うことが多い。現地語は無数にあり、みんながみんなジャワ語を使うわけではないのだが。
 例えば、学校の授業では基本的にバハサが使われる。しかし、休み時間になると、生徒たちは、各々の机に集まったりしながらジャワ語で会話する。もちろん、先生もジャワ語は完全にわかっているのだが、そういう区別がインドネシアにはある。
 僕がジョグジャカルタの高校で防災について教えたときは、拙い英語ともっともっと拙いバハサで行った。それでなんとか通じるし、バハサを使うと、「日本から来た色白の男の人がインドネシア語喋ってる笑」みたいな感じで笑いが起きる。ボビー・オロゴンをイメージしてほしい。だいたいあんな感じだ。
 でも、彼らは家に帰るとジャワ語で話すし、友達とWhat’s appで連絡をとりあうときは、ジャワ語だ。なぜか僕もそのグループに入れられているが、Google翻訳を使っても意味がわからない。ジャワ語は難しいのだ。
 そんな僕でも、唯一喋れるジャワ語がある。インドネシアには洗濯屋さんがたくさんあり、僕もそれを利用しているが、そこのご主人が、教えてくれた言葉である。”motor ngwon”。スペルは心もとないが、ありがとうという意味だ。インドネシア語が喋れる日本の友人に聞くと、ジャワ人に使えば、めちゃくちゃウケるらしい。なるほど。婚活とかでジャワ人に囲まれたときに使ってみようと思う。”motor ngwon”。

(2016年12月13日, 宮前)

海外インターン@インドネシア #14 タコ

 ほとんどだれも経験したことのないような理由でタコができた。右手の人差し指の付け根の部分。高校の時は、部活をしていたので、それなりにタコがあったが、久しぶりのタコだ。
 サラマンダー号と名付けた赤い自転車で通学していることは、すでに紹介した。あれから、サラマンダー号は、一回だけチェーンが外れて直してもらったが、それ以外は無事であった。しかし、自転車置き場に行き、大学から帰ろうとしたとき、盗難防止用のチェーンロックがうんともすんともいかなくなってしまった。開けようにも開かない。どうやら、錆びついてしまったようで、人間の力ではどうすることもできないようだった。その日は、諦めて自転車を置いて家に帰った。
 それが金曜日の出来事だったので、月曜日に歩いて大学へ行き、自転車置き場に行くと、そこにあるはずのサラマンダー号が無い!盗まれたかと思い、スタッフに相談し、警備員に聞くと、どうやら、警備員が日曜日に屋内に移動していたらしい。よかったと安堵するのもつかの間、次は、何とかして鍵を開けないといけない。このままサラマンダー号に乗れないのは嫌だ!鍵を何百回とガチャガチャやっていると、どこかで何かがうまく作動して、鍵が開いた。そして、僕の人差し指の付け根には、タコができたのであった。
 気づいたら、インターンもおよそ半分を経過した。最後の日まで、サラマンダー号はもつのだろうか。そして、できることなら最終日に売ってしまって、そのお金を軍資金にしてお土産を買おうと思っているのだが、軍資金は足りるのだろうか。先に言っておきます。お土産買えなかったらごめんなさい。

(2016年11月28日, 宮前)

海外インターン@インドネシア #13 コラム

 最近コラムの更新が滞っている。最近特別に忙しいというわけではない。ただ、なんとなく書く気になれないというだけの話だ。コラムというよりも備忘録というような内容ばかりだったけど。
 思えば、コラムを書き始めたときからこうなることは予想していた。だから、気軽にできるように一回一回の分量は少なめにしていたし、実はまだ書いていないこともたくさんある。それでもなんとなく書く気が起きないのだ。なんとなくとしか言えない。
 インドネシアに早いもので一か月半弱滞在していると、いい意味でも悪い意味でも慣れてきてしまったのかもしれない。来た当初は、水ばっかり出るシャワーもよく壊れる自転車も、でこぼこの道も新鮮に見えていたが、そういった新鮮さも薄れてきているように思う。インターンも半分近くが経過し、中だるみ状態なのかもしれない。
 しかし、ともすれば、何かに慣れていくということは、よそ者ではなくなっていくプロセスなのだ。伝統的な人類学者は、フィールドに2年間滞在するという。それは、1年間は現地の暮らしに慣れて、もう1年で現地の人の視点から文化を調査するかららしい。慣れることで、新鮮に見えていくものがあるということなのだろう。思えばこのコラムも備忘録といった体裁だった。見るものすべてが新鮮でなくなったからこそ、日常生活をそれなりに送れるようになったからこそ、普通のことを忘れないようにしていく必要があるのかもしれない。

(2016年11月23日, 宮前)

海外インターン@インドネシア #12 部屋

[写真]翳りゆく部屋

 椎名林檎は、カバーが天才的にうまい。スピッツのスピカとか、太田裕美の木綿のハンカチーフとか、あとセルフカバーで言えば、カプチーノとかおいしい季節とか。でも、最近よく聞いているのは、荒井由実の翳りゆく部屋のカバーだ。原曲のあの切ない感じに青春時代のような切なさがプラスされている。原曲が20代後半における恋人との別れの曲だとすれば、椎名林檎カバーは、22歳くらいで体験する過去の自分との別れの曲だ。就職活動が終わって、大学を卒業するまでの数か月の間にこれを聞いたら泣くだろう。22歳は多感な時期だから。
翳りゆく部屋というのは、まさに僕が今住んでいる部屋のことだ。つなぎ方が雑なのは許していただきたい。
インドネシアに来る直前、初めて空港泊を体験したが、空港はシャワーが無いことを除けば快適に過ごせる。しかし、この部屋は逆に、シャワーがあることを除けば、ほとんど何も残らない。頼みの綱のシャワーも初日はお湯が出なかった。これもインドネシア流のジョークに違いない。いまでもお湯の調子はそれほどよくはなく、たまに水が出てくるが、水が出るぞと思っておけば、常夏の国ではかえって気持ちいいものだ。
 そして、この部屋には、とてもきれいな色のトカゲがいる。かれこれもう2週間は僕の部屋にいるが、食料はどうしているのだろう。はやく出て行って外界の快適さに気付いてほしい。Win-Winの関係を築きたい。
 この部屋はだいたい8畳くらいしかないのだが、ほかの部屋ではどうも4人家族くらいで暮らしている人が多いみたいだ。僕には全く想像がつかない。一人で暮らすにしても、それほど広くない部屋でどうやって4人も暮らしているのだろう。赤ちゃんがいたりするが、子育てには向いていないと思うぞ。この部屋。まあでも住めば都なんだろう。実際に、僕も愛着がわいてきたし。トカゲの食料だけは心配だが。

(2016年11月13日, 宮前)

海外インターン@インドネシア #11 大統領選

 先日、アメリカの大統領選があって、共和党のドナルド・トランプが当選した。トランプ当選の瞬間、僕はガジャ・マダ大学のオフィスにいて、選挙戦のインターネット配信を同僚たちと見ていた。僕は割と真剣に見ていたのだが、彼らは忙しいこともあり、仕事の合間にちらっと気にするというような感じだった。それでも、トランプ優勢かというニュースがにわかに現実味を増していくと少しずつ注目しはじめ、勝利宣言のときはOMGOMGという念仏のような声が廊下からも聞こえるようになった。

 その中でも一番ことの成り行きを心配していたのが、アンピだ。彼は、東ティモール出身で、ときどき僕に、こんなことを話してくれる。「インドネシアは、いろんな民族がいる国だけど、やっぱり俺みたいな肌の黒い人は、生きづらいよ。言葉も訛りがあるし、よそ者だっていう感じは、ぬぐえない。」僕からすれば、彼の肌の色は、少し浅黒いかなという感じで、まあそれは僕が鈍感なだけなのかもしれないけど、そんな悩みを抱えていたなんてと驚いた。だから、アンピは、マイノリティとかそういう問題に敏感で、そのことが僕みたいな外国人への気配りに現れていて、率直に言って、僕は彼がかなり好きだ。

 アンピは、トランプのイスラム・フォビアをひどく心配していた。周りのインドネシア人は、対岸の火事だろうという姿勢を取り、冷静さを装っているが、アンピは、世界がおかしな方向に行ってしまったのではないかと気が気でない様子だ。

 僕も、今回の大統領選や、少し前のイギリスの国民投票は、すごく大きな意味を持っていると思う。マイノリティへの差別はだめだというポリティカル・コレクトネスの「正しさ」が、もはや嘘くさく感じられるようになってしまったんじゃないかと思う。なぜなら、選挙で大きな力を持つマジョリティたちが疲弊しはじめ、彼らは、かつてはたしかにあったはずの尊厳を取り戻さなければならないと思いつめ始めているからだ。だから、彼らからしたら、移民たちに職を奪われ、さらに貧困にあえぐ移民たちのために少ない給料の中から多大な税金を払うことの、その「政治的な正しさ」が、正しいがゆえに、抑圧として機能してしまっているのではないだろうか。これから多民族国家インドネシアはどうなるのだろう(つい最近、ジャカルタで大規模デモがあった)。単一民族幻想が根強い日本ではなかなか味わえない感覚を僕はいま抱いている。

(2016年11月10日, 宮前)

海外インターン@インドネシア #10 防災マップ

[写真]マップ作り

 地図を作るということは、世界を作ることなのだと大胆な仮説を立ててみる。昔、世界地図はTO図といって、エルサレムが中心にあってその上側と右下側と左下側に分かれているだけの至極シンプルなものだった。もちろん地球の形は平たいお皿を想定していた。でも、当時はそれでよかった。地球がどういう風になっているかよりも、神様がちゃんと真ん中にいるということの方が大事だったのだ。地図は、宗教的なものだったのだ。

 だから、地図を描くということは、世界の認識を描くということなのだ。地球儀を作ったときにはじめて地球は丸くなったのだとさえも言ってしまいたくなる。宇宙からの衛星写真が無い時代、人類が地球について信じられるのは実際に誰かが歩いて作った地図だったのだから。

 それゆえ地図は想像力を伴っているのである。私たちが目にするのは、現状認識としての地図である。だから地図は、防災教育と非常に相性がいい。私たちが住んでいる地域を知ろうとするとき、それを地図として具現化することは役に立つ。さらに、地図を描くことで、もしも災害が起きたときに何が引き起こされるのかについて地図の上で想像することができる。だって、地図は、私たちの想像力なのだから。

 というわけで、高校での防災教育プログラムの第2回目は学校内外の防災マップを作ってみようという企画であった。高校生たちは、実際に学校の周囲を歩いて、地元の人にインタビューをしながら、地域の問題点を探っていく。

 そうやってできた地図がまたおもしろい。Changringanという町は、ムラピ山という活火山のふもとにある。ムラピ山は2010年に大噴火を起こしており、そのときは300人以上の人がなくなった。日本でも昨年御嶽山が噴火したが、そのときでさえ50人ほどの死者であった。単純に比較することは決してできないが、ムラピ山が地域の人の脅威になっているということは想像できるだろう。その高校生たちは、地図の上半分に大胆にムラピ山を書いた。大きく書いてしまったから、自分たちの高校はそれに合わせて小さくなる。しかし、実測図じゃない地図の良さはこういうところにある。彼らは、ムラピ山を、いわば、そういうふうに見ているのだ。防災はそこから始まるのだから。

(2016年11月7日, 宮前)

海外インターン@インドネシア #9 雨季

[写真]雨上がりの交差点

 日本には四季があるから自然が美しいのだと言う人がいる。清少納言の枕草子も、春はあけぼのと言っていたことが現代でもなんとなく共感できるから、いまだに読み継がれているのだろう。たしかに日本の四季はいいものだと思う。インドネシアでは、桜は咲かないしね。

 インドネシアは常夏の国だが、いちおう季節と言われるものはあって、それが雨季と乾季である。インターネットで調べると、11月から4月が雨季で5月から10月が乾季となっているらしい。でも、インドネシア人に聞くと、その分けかたも「大体」で、雨が降ってきたなあと思ったら雨季らしい。

 まさに今が雨季の真っただ中で、午後になると激しいスコールが降る。雨が降り始めると、外にいた人たちがそそくさと雨宿りを始めて、心なしか休憩ムードになる。雨はたいてい1時間程度でやむのだが、屋根を打ち鳴らす雨音を聞きながら、雨やみを待つ時間というのもどこか心地よいのである。

 今日もまた帰り際に雨が降り、自転車では帰れないので、1時間くらいオフィスで雨宿りをしてから帰った。夕方と夜のちょうどあいだ、雨に濡れた道に、家々の窓から漏れる明かりが滲む。僕は、その景色を美しいと思う。インドネシアに清少納言がいたら、雨季は雨が止んだ後の17時半と書いていたに違いない。

(2016年11月4日, 宮前)

海外インターン@インドネシア #8 インターン

[写真]「災害ってなに?」のディスカッション

 このコラムでは、いつも僕のインドネシアでの生活の様子を、ときおり愚痴交じりで、綴っているが、僕はインドネシアに「生活をし」に来たわけではないということをここで宣言しておこう。そうでもしないと、僕自身、目的を忘れかねないからである。今回のインドネシアでのインターンシップの主目的は、現地高校での防災教育トレーニングの実施である。

 毎週月曜日にChangringanというところにある高校で、毎週金曜日にBantulにある高校に行って90分間の防災教育の授業を行っている。それぞれ6名ほどの大学院生がボランティアとして参加し、チームになって授業を作っている。大学院生たちがこのプログラムに参加した理由は様々だ。主に国際関係論を専攻している学生たちなので、紛争解決と災害(防災)は似ているからというまっとうな理由もあれば、誘われたからとか、理由は特にないけど、のような学生もいる。かと思えば、スマトラ出身で、2004年のスマトラ島沖地震津波を経験した学生もいる。しかし、全員に当てはまるのは、災害や防災教育に関しては、まったくの素人だということである。かく言う僕も、防災教育は、どちらかと言えば毛嫌いしてきた部類なので、見方によっては素人よりもたちが悪い。

 学校の中で授業として「防災」をしてしまうということが、僕はどうしても許せない。避難訓練だって、中学生にもなればマンネリ化しすぎて、かえって逆効果じゃないのとか思う。そもそも防災を学ぶってなんなんだよって思うわけで、まあ不満はこのくらいでよしておいて、このプログラムでは、そういう防災教育をするといえばするのだが、普段会うことのない大学生と触れ合うということが、高校生たちにとってはすでに目新しく、防災教育プログラムも割と真剣に取り組んでくれている。

 第一回は、災害ってなに?ということをテーマに小グループに分かれてディスカッションをした。社会的災害、自然災害、人的災害というふうに分けられるそうだ。そんなにきっちりと分けられるのかは分からないが、例えば、噴火は防げないけど噴火による被害は減らせるとかそういうふうに整理できそうで、高校生たちも納得している様子だった。おもしろいのは、教室から飛び出して、その辺の外廊下に座って車座で議論するところだ。外の方が涼しいじゃんということらしい。お国柄なのかもしれないが、風にあたって自然を感じられるのがいい。その自然が猛威を振るうこともあるのだけれど。

(2016年11月1日, 宮前)

海外インターン@インドネシア #7 アルコールと宗教

 酒は百薬の長などとも言われ、まあそれは、用法容量を守ってということに過ぎないし、そもそもそういうことを言う人はきまって大酒飲みなので、まったく百薬の長ではないのだが、少なくともそれくらいには日本の文化の中にお酒というものは、深く染みついているとここでは強引にまとめてしまいたい。たとえば、復興の事例を学びに新潟の山奥の集落に行けば、お勉強だなんてそんなことはいいからまあまあ飲みましょうやという感じで、気づけば昼の3時くらいから酒宴が始まり、8時を過ぎたあたりで、「密造酒だから誰にも言うなよ~」と言いながらこっそりと自家製のどぶろくをふるまわれ、なんやかんやで12時過ぎまで飲み続けている。これは異常だと思うが、お酒を酌み交わすことで腹を割って話しましょうやという気概が日本人には少なからずある。

 インドネシアは、イスラム教国と宣言しているわけではないが、イスラム教徒が90%近くいるので、文化的にもイスラム教の影響を受けていると思われる部分が多い。町のいたるところにスピーカーがあり、決まった時間になると、何やら念仏のイスラム教版みたいな音声が街中にとどろき、礼拝の時間を教えてくれる。日本でいえば、夕方になると流されるゆうやけこやけなどを思い浮かべればいいだろう。

 さて、そんなイスラム教徒の多いインドネシアでは、基本的に飲酒の習慣はないが、イスラム教徒ではない人たちや、イスラム教徒だけどお酒ぐらい飲みたいやい!という人たちは、お酒をたしなむ。ただし、お酒が手に入るところは非常に限られていて、僕はまだその場所を知らない。ある日、コンビニに行って(お気に入りのアルファマートだ)、お酒でも飲もうかなと思い、飲み物の保冷ケースの前に立ち物色すると、お酒がある。ビンタンビールとギネス。ただしどちらもゼロカロリーだ。まあ、この際いっかと思い、二つとも買い、部屋で飲むと、なんと二つとも甘い。ビンタンはラドラーのものを買ったので、レモンの炭酸ジュースとして美味しいが、ビールの味は皆無。ギネスにいたっては、黒糖炭酸ジュースといった味わいで、ビールの舌になっていた僕からすれば、まず、味を認識するまでに脳みそが何回かエラーを起こしてしまい、まったく味を言語化できない。ここまでするんだったら、ビールなんて売らなきゃいいのではと思う(しかも、普通に高い)。僕がインドネシアでお酒にありつけるのは、いつになるのだろうか。

(2016年10月26日, 宮前)

海外インターン@インドネシア #6 夕食後の日課

 オフィスでの仕事を終え、アパートに帰って、毎晩6時ぐらいになったら、シェさんと夕飯を食べに出かけている。アパートにはキッチンがない(ついでに言えば洗面台も流しもない。しかし謎のベランダ的なスペースはある。ベランダと言ってもトタン屋根があるから半屋内だ。さらに謎。使用用途がいまだに見えてこない。まあ、これについては後日詳しく書こう)。しかもインドネシアは外食文化で屋台とかちょっとした食堂みたいなものがたくさんあるから、外食のほうがなんだかんだで安い。一食200円くらい出せば、普通にお腹いっぱいになる。僕たちがよく行くファストフード的なレストランは、一食100円もかからない。まあ少し、量は少なめだが。

 さて、夕食を終え、僕たちは、たいてい近くのコンビニに寄ってから帰宅する。そこで水とかちょっとしたお菓子とかを買うのだが、アパートの近くには、3種類のコンビニがあり、それぞれの個性がなんとなく分かってきた。一番近くにあるのが、「アルファマート」で、これは何とか大学の隣にあるからなのか、店員さんが割としっかりしていて、接客に嫌味がない。支払う値段通りにお金を出すと、すごくうれしそうに受け取ってくれる。僕が一番好きなコンビニだ。ただ、若干高い気がする。一番遠くにあるのが、「インドマート」で、ここは、一番安い。特に水は、他店よりも2割ほど安く、1.5リットルで20円くらいだ。ただ、店員さんはいつも忙しそうにしており、愛想はよくない。殺伐としてる。で、真ん中くらいにあるのが、「サークルK」で、これは値段も接客もまあ、ふつうだ。というか、何回か行っているはずなのに、あんまり記憶にない。

 今晩行ったのは、僕のリクエスト通り、アルファマートだった。いつもと同じように、レジでぴったりのお金を出し、男の店員さんに「そうそう!オッケー!」みたいな反応をしてもらい、レシートを受け取るときにこちらからすかさず「テリマカシー」と言った。ふつうはどういたしましての意味の「サマサマー」とか、相槌みたいな「イェアー」と言われるのだが、彼は「クンバリ」と言った。クンバリもどういたしましてなのだが、あえてクンバリをチョイスしたというのが、なんだか、アルファマートぽくて、またしても好きになってしまった。好感が持てるから好きになるのではなく、好きになったらなんでも好感が持てるものなのだ。

(2016年10月24日, 宮前)

海外インターン@インドネシア #5 大ざっぱな蜘蛛の巣

 インターネットの網の目が世界を包んでいるというような言い回しは、合っているんだけど合ってない。インターネットの網の目が世界を包んでいるというところは本当で、ただ、その網の目が異様に大きいところがあるというところは忘れないようにしなければならない。そしてその網の目の大きさは、自分がどこにいるかによって変わるし、自分の状態によっても変わる。日本にいたら何とかなるような些細な問題でも、言葉の通じない国にいるとなかなか大ごとに感じられるというのはよくあることだろう。そして僕は今まさに、「大ごと」の最中にいる。

 夕方、オフィスから部屋に帰ると、パソコンからネットにつながらなくなった。Wifiが壊れたなと直感した。前から、ほとんど使えてないのと同然なようなか弱い回線だったからだ。しかし、同じアパートに住んでいるシェさんは普通に使えているので、ルーターとかモデムの問題ではなさそうだ。しかし、僕のパソコンだけ使えないのならパソコンの問題として処理できるが、iPhoneも同様に使えないのでやっぱりモデムのせいか?と疑ってしまう。こういう決定打にかける問題ほど厄介なものはない。管理人のおやじに言いつけても、こっちとしても自信がないから強く言えないし、おやじはインドネシア語しか話せないから、途中でなあなあになってしまうことが目に見えている。

 とりあえず今晩は様子見ということにして、明日、オフィスのスタッフと一緒にクレームしに来よう。一旦置いてみようというのは、日本人の悪い癖でもあり、その実、美徳でもあると思う。

 で、せっかくだから、海外パケット定額というのを使ってみた。auユーザーは、インドネシアにいても1日2980円でパケット使い放題なのだ!しかも4Gも使えるよ!とステマはここまでにしておいて、パケット定額を使ってみて、分かったことがある。インドネシアの4G回線は、死ぬほど遅い。注意されたし。

(2016年10月20日, 宮前)

海外インターン@インドネシア #4 漫画フェス

[写真]漫画フェス

 ガジャマダ大学には日本語・日本文化学科があり、そこが主催となって毎年漫画フェスなるものをやっているらしいよ、一緒に行ってみませんかとインターネットで出会った方からお誘いを受けた。おもしろそうだなと思い、ぜひご一緒させてくださいと返事をしたが、それから返信はなく、返信を待っていたら漫画フェスが終わってしまいそうだったので、もう一人のインターンシップ生のシェさんと一緒に行ってきた。

 ガジャマダ大学のすぐそばにある体育館とその裏手にある野外スペースを開放して、漫画フェスは開催されていた。入場料は15,000ルピア。だいたい150円くらいだ。体育館の中に入ると、むわっとした熱気が襲う。行ったことはないけど、コミケがちょうどこんな感じなんだろうなと思わせる熱気だ。日本のコミケは、オタクたちの汗と熱気が上昇気流を生んで屋内に雲が発生したらしいが、残念ながらそこまでではなかった。屋内に所狭しと並べられた長机の上に、この日のために用意してきたのであろう漫画のイラストや、同人誌などがこれでもかと並べられる。売り手もオタクなら買い手もオタクだ。会場全体に奇妙な仲間意識が生まれていた。

 外に出ると、今度は、物産ブースや飲食ブースが並び、中央部分にはライブステージが用意されていて、日本の曲、それも何かしらのアニメの主題歌がインドネシアの若者によって歌われている。曲が始まると、近くにいたオタクたちがこぶしを振り上げながら、ステージに近寄り、「ウォイ!ウォイ!」とやっている。こういう雰囲気まで日本に似ているものだなあと、僕はこぶしを振り上げるのを我慢してクールぶりながら思う。

 コスプレをしている女性も多くて、メイクの仕方のせいだろうか、日本人とほとんど見分けがつかない。そして、コスプレイヤーと一緒に写真を撮ってもらっているインドネシア人男子オタクの緊張したような顔は、もはや日本人のようでさえあった。国境を越えてオタクの顔は似てくるのかもしれない。

 ムスリムの女性は、むやみに肌を露出しちゃいけないから、コスプレをしている人は、ムスリム以外の人か、ゆるめのムスリム(業界用語でゆるリム)かのどちらかなのだろう。薄着をしなくてもいいコスプレが流行れば、インドネシアでも流行るだろうなと思った。

(2016年10月17日, 宮前)

海外インターン@インドネシア #3 バイク屋のおっちゃん

[写真]自転車屋さんに見てもらう壊れたサラマンダー号

 サラマンダー号が壊れた。昨日買って今日壊れたのか、おいおいそりゃないぜと思われる方もいるかと思うが、そうではない。昨日買って、昨日のうちにペダルがガタガタになっていた。瞬殺であった。昨日のこのコラムを書いていた時点ですでに壊れていた。あまりの展開の速さにコラムに書くのに間に合わなかったのである。

 さて、昨日、帰り道、ショートカットを順調に飛ばしていると、左のペダルが緩んできた。乗れないことはないのだが、せっかくいい自転車を買ったのだし、ちゃんとした状態で乗りたいと思った僕は、アパートの近くのバイク屋のおっちゃんに修理を頼んだ。おっちゃんは、僕のサラマンダー号を見て、ほうほうとうなずきながら、自転車の部品があまりに乱雑に置かれた店内を物色し、なんらかの部品を探し当て、ほどなく直してくれた。テリマカシーと僕が言うと、おっちゃんは、照れたように笑って「サヨナラ」と言った。

 翌日、帰り道、同様に飛ばしていると、左のペダルが今度は取れた。事態は悪化していると言わざるを得ない。結局、サラマンダー号を押して、取れたペダルを持って、歩いて帰った。部屋に戻るより先に昨日のバイク屋に行って、精一杯困った表情を作って、無残にも取れたペダルをぶらぶらさせた。おっちゃんは、もはや笑ってた。昨日と同じように、乱雑な、というかむしろ、整理という言葉から最も遠くにある物置から、何らかの部品を取り出して、ペダルを取り付け、グッとねじを回す。昨日より幾分も念入りに、力を込めて。ペダルの取り付けが終わり、サラマンダー号にまたがり左側のペダルを慎重に押し漕いでみる。二漕ぎ目は、ちゃんと直っているかを確かめるように力強く。なんとかなりそうだった。昨日と同じように「テリマカシー」「サヨナラ」とあいさつを交わす。もうサラマンダー号が壊れても大丈夫だ。ねじが緩んだら巻き直してもらえばいいのだから。

(2016年10月15日, 宮前)

海外インターン@インドネシア #2 サラマンダー号

[写真]サラマンダー号

 その滞在がただの旅行なのかそれとも長期にわたるものなのかを明確に分けるのは、自転車を買うか否かにおいてだろう。そんなに長くいるつもりがなければ、バスやレンタカーで事足りるし、そもそもそれを前提にしたプランを立てる。しかし、長期滞在ともなると、それほどお金をかけずに自由に動きたくなるもので、そういうときに自転車はかなり重宝する。しかも、自転車を漕いでいると、なんとなく土地勘はつくし、道端の商店や食堂、ランドリーなどをめざとく見つけることができる。小路を通りながら地元の生活を感じることができる。一石二鳥だ。

 そんなわけで、さっそく自転車を買った。大学の近くにいろんな中古品を売っているお店があって、その店頭に並べられている自転車の中から、2番目にいいやつを買った。ほとんど新品で800.000ルピア、日本円にして8000円ほどだ。思ったよりは安くない。

 その自転車は、赤いボディが輝いていて、乗るとクッションがしっかりしている。インドネシアの道は、僕たちをわざとこけさせようとしているんじゃないかと疑うくらいガタガタなので、クッションは地味に大事だ。とりあえず名前は、「サラマンダー号」にしておく。こういうのは、少しダサいくらいがいいのだ。

 大学からの帰り、ハニとフリサが帰り道を教えてくれると言う。これを覚えられなければ出勤できないから、今回のインターンシップの成功に大きく関わってくる。ハニは「ショートカットか覚えやすい道どっちがいい?」と聞いてくる。僕は迷わず「ショートカットのほう」を選択する。男子の性だ。しかたない。いくつかチェックポイントを示してくれたが、なるほどわかりにくい。どんどん狭い道を通っていく。この道をちゃんと覚えられたかどうかの答え合わせは、明日ちゃんと大学にたどり着くかどうかで判断してみようと思う。

(2016年10月13日, 宮前)

海外インターン@インドネシア #1 再会

[写真]アジスアプト国際空港の朝

 ジョグジャにあるアジスアプト国際空港に着く。ここ3日間は、朝は空港で過ごしていた。ちゃんと寝ていないので、けっこう疲れはたまっている。首も痛い。座りながら寝ることを強いられる夜行バスで鍛えた首筋も悲鳴を上げ始めた。

 空港には朝の7時前に着いたのだが、迎えに来てくれると約束したハニがなかなか来ない。Lineでは「もうすぐ着くよ!待ってて~」というようなことを言っているが、そのlineが来てからすでに30分ほど経過している。授業で聞いたインドネシア時間というものを思い出す。時間は無限にあるんだから焦っていても仕方ないじゃないというやつで、平板に言えば、時間にルーズということだ。なかなか客の捕まらないタクシー運転手のおっちゃんとともに、それぞれ異なる人を待っていると、フリサが来た。「ミヤマエサンデスカ」と言ってくれる。それだけで待ち合わせ中の不安さが吹き飛ぶもので、なんだか気が大きくなった。

 ハニは、車の中で待っていてくれた。ヒサシブリと日本語で言い合い、次は英語でほんの少しだけ近況を報告しあった。1年半ぶりの再会の感情を分け合える人がいるということは、旅先においてもっとも心強いものの一つであることは間違いない。

(2016年10月12日, 宮前)

海外インターン@インドネシア #0 出発前日

 出発の前の日はたいてい徹夜をすることになっている。国際線の予約を取るときなぜか朝早い便の場合が多いし、そうすると時差ぼけのことも考えると少しくらい生活リズムを崩しながら旅立つのがいい気がする。特に根拠はないけど。

 そうやって徹夜を決め込むと、どうせ数か月帰ってこれないのだし部屋の片づけでもしようとなり、いきおい深夜の大掃除が始まる。お風呂の水垢をていねいに落としたり、ガス台の油汚れを落としたり、深夜だから掃除機は使えないとして、それでもできる限りほこりを取ってみる。そうやって朝日が昇り始めて、そろそろ家を出ようかな今何時かなと思うと時計の針が止まっていることにようやく気付いた。いつ止まっていたのか分からない。もしかしたら、数日前にすでに電池が切れていたのかもしれない。少し迷う。今さら電池を替えたとして、次に僕が時計を見るのは三か月後だ。そのときまで止まったままであっても、だれも文句は言うまい。

 でも、やっぱり電池を替えて時計に動き続けてもらうことにする。次に家に帰ってきたとき、この時計は、針をいったい何周させているのだろうか。そんなこともわからないけど、その針が回った分だけ僕はインドネシアに行ってくるのだ。そういう感覚がしっかりと空の電池から伝わってきた。

(2016年10月10日, 宮前)

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