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活動報告

From: T(2期生「海外インターンシップ」@タイ)<更新中!>


 未来共生プログラムの3年次に履修生は海外の現場、国際機関などで比較的長期のインターンシップに従事します。現在、2期生が世界各国の様々な場所に派遣されていますが、高原耕平さん[文学研究科・博士後期課程1年]がその様子を現地からレポートしてくださいます。高原さんは2017年1月18日から2017年4月13日の3ヶ月間、タイのパンガー県タクワパー郡にあるBaan Than Namchai Foundationでインターンとして働きます。高原さんから届いた記事をオンタイムで更新できればと思います。以下、高原さんからの報告です。

Day 59 名を呼ぶことのエチカ

[写真]池に稚魚を放流する。

 孤児院のこどもたちと接しているうち、かれらの名前を私がノートに書き取ると、かれらがふしぎな満足の表情を示すことに気づいた。

 孤児院には80名以上の生徒がいる。名前と顔を全て一致させるのは難しいと思って、私は彼らの名前を記憶することをかなり怠ってきた。ところがあるときからこの怠慢を改め、私は積極的に「クン・チュー・アライ」と問うようになった。かれらの名前を聞いてから、「キアン」と言ってノートを差し出す。生徒が即座にじぶんの名前を書く。私はタイ語の綴りを自分で書き直して確かめる。
 次いで「アー・ユー・タオ・ライ」と聞く。すると「シップ・エット」と返ってくるので、「11才」とノートに追記する。年齢を同時に聞くようになったのは、5才くらいかなと思っていたひとが実は9才だと知って衝撃を受けたということがあったからである(そのひとはかつて親から虐待を受けていた)。
 そのままではまた忘れてしまうので、簡単な似顔絵を描き添える。すると、「こいつここにホクロがあるんやで」などと周りがわちゃわちゃ騒ぎ出して、「次はわたしが書く」とノートの取り合いになり、私はかろうじて最初の二人分くらいの名前を覚えて脱出する。

 かれらは、私に名前を覚えさせようとする。名前を覚えることで即座に何かが変わるわけではない。しかし名前は最初の、最低限の、共有すべき基本線だった。かれらは「わたしがひとりのわたしであることを知れ」という、あたりまえのメッセージを私に向けていた。そしてまた、その名前さえ覚えたのなら、それ以上の深い「理解」(たとえば、どのような経緯で孤児院に来たのか、ダンスを踊ることについてどう感じているのか、などといったこと)はたいして求めていないのかもしれない、ともおもう。

 さまざまなことをおもいだす。
 タイに来る前日、阪神淡路大震災の死者の「名前」を夜通しで呼ぶという追悼の場にいた。「風化させない」「忘れない」といった決まり文句からすこし向こう側に入り込んで、「その人がその人として存在していたこと」に近づくこころみだった。死者の名前はそのための入口であり、行き止まりでもあった。
 3年前に南三陸町で保育士のかたに話を伺ったとき、「この町が存在していたということを忘れないでほしい」と言われた。あるいはまた、ロンドンのセノタフ(無名戦士の墓)を訪れたとき、湾岸戦争症候群への補償を訴える退役兵士が「We are forgotten.」とはっきりとした口調で言っていた。自分たちの苦痛や物語や傷口を何度もガーゼでこすってくれる必要はない、ただ「いる」ということ、「いた、あった」ということを掛け値なしに認知せよということだったようにおもう。
 
 孤児院の生徒たちは、2004年のツナミの死者の共同墓地を定期的に掃除している。墓地の土の上には等間隔に墓標が並んでいるが、プレートに記されているのはアルファベットと数字の記号のみである。「名前は別の場所に記録されているよ」と言われたが、判明していないひともいるかもしれない。
 ツナミで家を失った被災者は、「出稼ぎに来ていたミャンマー人も多く亡くなったけれど、かれらの遺体がどこへ運ばれたかわからない」と言っていた。そのひとが「いた」ということ、ただそれだけの事実を聴き取ることが難しいこともある。

 生徒たちも私もさしあたり生きていて、笑いあったり目をそらしたり互いに無関心であったりすることができる。そのあいだに、私はひとりずつ顔と名前を覚えようとしている。孤児院に来る客人の多くは半日から数日で帰ってしまう。そのときたまたま生徒たちの名前を聞いたとしてもそれっきりで、たいていは戻ってくることはない。それには生徒たちにとって、小さなかすり傷を毎週繰り返し受けることなのかもしれない。私がそうした客人と同じか違うのか、わからない。滞在の残り日数がどんどん減ってゆく一方で、覚えた生徒たちの名前がノートに増えてゆくのが、しんどくもある。

(補記)ただし私が教えてもらっている名前は、孤児院内でのニックネームである。ニックネームは「プン」「アイ」「タイガー」「ゴルフ」「ボス」など、外国人にも呼びやすいものが選ばれている。孤児院では、スタッフも生徒も、このニックネームで呼び合う。

(2017年3月17日, 高原)

Day 57 ダンスとスマホ

 孤児院には来客が多い。週一以上のペースで国内外からの客人が訪れる。わたし自身も客人であるけれど。

 客人はまず小さな講堂に通され、そこで幼稚園児たちによるダンスと、女子生徒(小中学生)によるダンスが披露される。女子生徒は、肩を広く出した衣装を着て、かっちり化粧をしていることもある。

 初めてこの衣装と化粧とダンスを見たとき、ちょっとギョッとした。今でも慣れない。セクシャルな雰囲気がそこに含まれているとも、含まれていないとも断言できないけれど、どうしても目を逸してしまう。目を逸したのはなぜだったかと自問する過程で、自分自身の視線の底の薄暗い欲情が参考人招致を免れないわけにはいかない。

 けれども、たいていの客人はダンスの様子をにこにことスマホで録画している。食事の際も子供たちが給仕をするのを当然のように受け取っている。もしこれがあなたの故国(スイスやオーストラリアやイギリス)の孤児院であれば、同じようにダンスを録画して給仕を受けますか、と問いたくなる。
 とはいえ、このように義憤を感じているとき、わたしは「欧米人vsアジア人」の構図を勝手に導入して、日本人たる自分を後者の陣営に勝手に組み入れている。他方で欧米からの客人が帰ると、しばしば「先進国vs後進国」の構図でものごとを観察している。「アジア」と「先進国」を自身に都合よく使い分けて正論を吐き続けるこのメンタリティこそは大日本帝国の開明人士が得意としたところではなかったか。

 欧米vsアジアという枠組みに限界を感じるのは、タイ人の寄付者が来たときである。この場合もやはり「ダンスとスマホ」であるし、日本人の来客もやっぱりにこにこと録画していた。そしてまた、寄付者へのダンスは別の公立小学校でも行われていた。ここの孤児院だけが特別というわけではない。

 どこでもやってることだから何の問題も無い、ということにはなるまい。ただ、異邦人がわきまえておかねばならないのは、孤児院は客人からの寄付によって運営されているということである。ダンスや食事による歓待は、おおげさに言えば孤児院の生存戦略である。

 ダンスは孤児院の生徒たちにとって日常生活の一部でもある。良し悪しは別として、ルーチン・ワークなのだ。
 客人にとって、子供たちのダンスで歓迎されることは一生に一度か、数年に一度の体験である。したがって彼らは感動する。ところが子供たちは毎週それを行っている。与える側の無邪気な笑顔はこの喜劇的なギャップを埋めようとするが、受け取る側のはにかみはそのこころみを受け入れているようでもあるし、拒んでいるようでもある。どちらであるのかわたしにはわからない。両方かもしれない。

 ひとつだけはっきりと理解したのは、彼女らにとって、ダンスの練習はすなおに楽しいものだということである。日曜の午後、西日がゆっくりと温めた床のうえで、8人ほどの生徒たちが事務局長のお手本に従いながらダンスの練習を始めた。手のひらが細やかにかたちを作り、腕がダイナミックな動作を担当し、足首がリズムを刻んでゆく。生徒がどんどん増えて、練習の参加者はすぐに倍になった。
 踊ることそのものが、たのしい。見ていてそう感じる。さいごまでうまく踊りきるとみんなで手をたたいて喜び、だれかが間違えるとみんなでけたけた笑いあう。音楽が始まると踵をぴょこぴょこ弾ませ始める。じぶんはずっとダンスを「観る」立場だけでしか考えていなかったなと気づく。もういちど全ての判断を留保して、ものごとのかたちを理解してゆこうとおもう。

(補記)女子ダンス・チームには一人だけ小学生の男子が混じっているのだけれど、わたしはこの文章でかれのことには触れていない。話を単純化したわけである。かれがいちばん踊りがうまいとおもう。

(2017年3月15日, 高原)

Day 54 ナムケム村の「震災遺構」

[写真]3.11 Khao Lak.

 先日、日本から来た大学生のスタディ・ツアーに一時同行させていただいた。ツアーはナムケム村という漁村を回った。ナムは水、ケムは塩の謂である。ナムケム村には2004年のツナミの際に流されてきた漁船が2隻、陸上に保存されている。
 1隻の船体は水色のペンキで、もう1隻は紅色に塗られている。水色の漁船はブルーエンジェルと後に呼ばれるようになった。もう1隻はレッドデビルと呼ばれるようになった。ツナミで流されてゆくレッドデビルの船体の下に、多くの人が巻き込まれて亡くなった。ブルーエンジェルは一人も巻き込まなかった。いずれも偶然であるけれど、このような経緯で名前が付けられた。
 近づいてみる。木造の船体は大きく傷んでいる。保存といっても、広場に野ざらしにされたまま。風雨と日差しのダメージを大きく受けているのだろう。舷側の板が剥がれ、雑草が生えだしている。5年ほど前に大規模修繕をしたと教えていただいたが、この具合では今後10年は保たないのではないかと思われた。船体が本格的に崩壊する日が来たとき、行政や地元住民がどのように対応するのかはわからない。

 カオラックにはタイ警察の警備艇が展示されている。この警備艇は沿岸から内陸へ2kmも流されてきた。ここでも野ざらしで設置されている。船体はアルミ製のように思える。傷みは木造漁船よりずっとマシだが、やはり日本で言うところの「保存」という環境ではない。

 ナムケム村にはもうひとつ、小さな震災遺構がある。対岸の島に渡るための船着き場に、へしゃげたコンクリート塊がある。ツナミの力で潰されたもので、何かの設備の基部だったらしい。突き出した鉄骨が生々しい。しかし特に掲示などは無い。ツアー観光客はどんどん渡し船に乗り込んでゆく。コンクリート塊は現用の船着き場の中心部にあるけれど、気づかなかったら通り過ぎてしまう。
 保存されているというより、撤去も再建もされていないだけ、というほうが近いようにおもえる。波に洗われるままにされている。
 日本ならば復興事業の一環として早期に撤去されるか、そうでなければこれは震災遺構ですということで掲示板や建物が新たに付け加えられるのではないかとおもう。けれどここではそのいずれでもない。おそらくお金が無い。さしあたり邪魔でないかぎり放置しておく、という方針なのかもしれない。数世代後には形をとどめていないだろう。孤児院の生徒に教えられて海面を覗き込むと、びっしりと小魚が泳ぎ回っていた。

 ナムケム村の「震災遺構」ととりあえず呼んだけれども、日本でそう呼ぶものとは、どこか時間の感覚が異なる気がする。日本ではまず撤去か保存かが議論になる。それぞれの理由として、思い起こすのが辛い、予算面の問題、災害体験の風化を防ぐために保存は必要、といった意見が挙げられる。長い議論を経たうえで、撤去か保存かが決定される。このとき撤去とは即座の永久の消滅を意味し、保存とは災害直後の姿を可能な限り残した上での半永久的な保存を意味する。
 
 ナムケム村でも同種の議論があったのかどうか、自分はまだ知らない。上述の漁船と警備艇については保存という選択がされている。ただし、日本の震災遺構が前提とする「保存」とはかなり異なる。即時撤去ではないが永久保存でもない。撤去はしないが、傷み・劣化には抗わない。「風化させておく」という表現のほうが近いのかもしれない。船着き場のコンクリート塊も同様である。
 タイの文化的な環境によるものか、財政面の事情によるものなのかは、まだわからない。両方ではないかという気がする。

(2017年3月12日, 高原)

Day 47 フィールド・ノーツ・フィールド

[写真]乱入記述の一例。

 孤児院のベンチに座ってノートにあれこれ書き留めていると、とくに就学前の小さな子供たちがそのノートとペンをわたしから取り上げて、絵や文字を自由に書き始める。
 子供たちについての記述のすぐとなりに、当の子供たち自身による記述が侵入してくる。「参与観察」どころではない。相互参与記述、あるいは「乱入記述」というような。子供と私の共同相互存在の外部で記述に従事していたノートとペンが、その共同相互存在の中核に引きずり込まれてしまう。フィールド・ノーツそのものがフィールドになる。

 乱入の内容がいろいろな展開をするのが面白い。昨日わたしは、来客のためにダンスをする子供の絵をノートに書いていた。小さな男の子がそのノートを私から譲り受け、坊主頭の人物画を書き加えた。自画像らしい。次いでノートは別の女の子の手にわたり、彼女は自分と2人の友人の絵を書き加えた。次のページでは、人物は小さくなり、家と大樹、笑う太陽と雲が大きく描かれる。その次のページでは人物はいなくなり、浜辺と魚、小屋と木の風景画になる。
 ノートの最後の数ページは夕食前に女の子2人が占有して使い切ってしまった。ここだけ見ると、もはや誰のノートであるかわからなくなっている。

 このようなエピソードは人類学や社会学では珍しくないことなのだろうけれども、自分にとっては新鮮だった。
 一連の流れを思い出しながらノートを読み返していると、子供の絵の絶妙な表情とわたしの字のごちゃごちゃ具合が不思議なバランスを作っていて、ふふ、と頬がゆるんでしまう。当初じぶんがこまごま書いていた内容そのものはもうどうでもよくなってしまう。

 内容が適当では叱られてしまうけれども、この、ふふ、となるかんじの文章を書きたいなと思った。中堅ゆるふわ系作家の手抜きエッセイみたいな締め方になった。

(補記)「フィールド・ノーツ」は現場で採録したメモを整理しなおした資料を指すので、ここでのノートをフィールド・ノーツと呼ぶのは正確ではない。

(2017年3月5日, 高原)

Day 46 かたち/ちから/外傷

 きょう初めてお会いした女性が、顎の下の傷跡を見せてくれた。こめかみと脇腹にもあるという。津波で流されながら負った傷らしい。はっきりと創傷の線がわかる。けれども、ここに傷跡があるよと教えてもらわなければ気づかなかった。
 皮膚が圧倒的な力で切り裂かれ、傷が閉じられ、肉が盛り上がり、跡が残る。イープン(日本)からスナーミのことを学びに来たという目の前の男に顎をくいと上げてその跡を指差す。そこで初めてわたしになにかが開かれる。いちど塞がった傷口が再び開き、わたしの視線をそこに飲み込む。その日の瞬間の、あるいは今も留まっている痛みの、その残響の残響がわたしの顎の下に薄く転写される。傷跡というただの肌の「かたち」にすぎなかったものが、わたしの目の前で彼女の個人史の栞や目次に突然転換する。わたしは探偵や鑑識官のように傷跡の微細な特徴から具体的に何があったのかを読み取ることはできない。ただ大切なことは、ここには読みとられるべき意味が多重多層に織り込まれている、という感知が始まっていることだとおもう。

 別の日、わたしはツナミのことを学びに来たんだと英語でふと言うと、突然中学生くらいの子が手振りを交えながら隣の子に母語で何かをだーっと話し始める、といったこともあった。どうやら、流されながら肩に何かが当たったとか、いちど身体が完全に水面の下に潜ったとかいうことを話しているらしい。彼女自身の体験であるのか、近親者などから聞いた話であるのかはわからない。
 午後の日陰をゆったりと享受していたサーフェイスが、とつぜん激しい濁流のかたちを作り出すところをわたしは見た。見ただけでなく、彼女の手の動きが突然ひらいた穴にわたしの身体が組み込まれていった。彼女の腕が水面をかたちづくるとき、わたしも水の下に引きずり込まれた。それは仮想的な曖昧な印象にすぎない。けれども、ここでもやはり、そのひとが作り出したかたちに否応なくこちらが組み込まれてしまうこと、意味の予感の奔流に圧倒されること、これらが大切なのだとおもう。

 「かたち」を理解したいと切実に考え始めている。
 「かたち」を丁寧に受け取ることができないとき、わたしは「力」へ誘引されている。そこにある「かたち」を観照し、そこに半身を預けてゆくよりも先に、そのかたちを成り立たせている力やエネルギーや原因や本質といったものごとに私の認識と実践が共鳴してしまう。そのとき「かたち」そのものは既に塗りつぶされている。

 こどもたちの表情や、スタッフの声のトーンや、孤児院の建物の造りや、木々の伸び方や、雲の色合いや、スコールの前の蒸し暑さ。そうした諸々の「かたち」をできるだけ丁寧に受け取って理解しようとするとき、じぶんのサーフェイスもまた何らかの「かたち」を取っているにちがいない。
 けれども、そこに至るまでにあと40日で足りるんだろうか、とおもう。

(2017年3月4日, 高原)

Day 40 コメとダンス

[写真]ここに映っているのはたぶん全体の1/4ほどです

 孤児院がバイク集団に襲撃された。日曜の昼下がり、ライダースジャケットに身を包んだ屈強な男女が大型バイクの太いエンジン音を轟かせ、孤児院に乗り込んでくる。その数およそ120台。モジャモジャ髭を生やしたバイク野郎、腕全体に入れ墨を施したバイク野郎もいる。コワイ!
 バイク野郎たちは輪を作って勝鬨を上げた。そして後続のピックアップ・トラックから、コメ2トンと多数の食料品を孤児院の運動場ステージに運び込んだ。バイク野郎たちは良い人たちだった。スゴイ!
 バイク野郎たちは“RIDE 4 KIDS”という慈善団体兼ツーリング・グループだそうだ。メンバーのほとんどはタイ在住の欧米人であるらしい。年に何回か、このように大集団を作ってタイ各地をバイクで巡航し、BTNCのような子どものための福祉施設を急襲してはコメなどを置いて去るのだという。エライ!
 R4Kのリーダーのトムさんに、なぜこのプロジェクトを始めたのですかとお聞きしてみた。「恩返しだね! タイの人にたくさん親切にしてもらった、だから何か少しでも気持ちをかたちとしてお返ししたいんだよね!」ということだった。わたしはその気持ちが素直にわかる気がした。この40日のあいだでさえ、恩返しをしたい人に何人出会ったことか。

 多数の寄贈品へのせめてものお返しということで、孤児院の生徒による歌とダンスが披露される。演ずる者と観る者、与えられる者と与える者、持たざる者と持つ者。双方を分かつ中間地帯、ステージと客席の2メートルほどの距離を、寄付者たちが掲げるスマートフォンのカメラが近づけながら遠ざけてゆく。

 タイは寄付文化の国である。孤児院にはしばしば裕福な若いタイ人カップルが訪れ、おそらくそれなりの額の寄付金とお菓子を手渡している。寄付者たちは椅子に座って微笑み、子供たちは床に座って微笑む。歌とダンスを披露し、最後にみんなで記念写真を撮ってお開きとなる。子供たちの笑顔に卑屈なものは無いけれど、その様子を後ろから見ながら、わたしは自分にここは異国なのだ、文化も経済状況も日本とは異なるのだと言い聞かせている。
 具体的に日本とどう異なるのか。貧富の格差がより激しく、おそらく政府にお金が集約されず、それゆえ十分な福祉予算が無い。一方、富裕層は高僧への寄進を怠らず、「恵まれない子供たち」にも寄付をして記念写真をFBに上げる。寄進・寄付は富の再配分の機能を果たし、道徳的アピールの手段ともなる。
 とはいえ、そもそも貧富の格差が大きすぎるのが根本的問題なのだ、富める者も貧しき者も同じ人間である以上、その格差をできるだけ縮めるべきではないか――これがプラティープ先生(Day 34参照)の姿勢である。そしてこの姿勢のために彼女は軍に睨まれ、先年のクーデター時には上院議員の立場でありながら軍事政権に身柄を一時拘束された。
 異邦人が恩返しを切望したくなる優しきひとびとの国であり、富める者が貧しき者に施しをすることが善行として奨励される国であり、その背後にある経済格差をただそうとする者には報復(これもネガティブなかたちでの「恩返し」である)が行われる国である、ということになるだろうか。

 国内の経済格差の話に逸れてしまったが、バイク野郎たちは寄付金を手渡し、水分補給をしたあと、すぐにまたバイクに乗って次の襲撃地点へと旅立った。気持ちのよいひとたちだった。
 ダンスにも記念写真にも、中高生クラスの男の子は出てこなかった。その気持ちもある程度想像できる気がした。バイク野郎たちが去ってから、男の子たちは寄宿舎から現れ、50キロのコメの袋を次々と肩にかついで炊事場に運び込んだ。

(2017年2月28日, 高原)

Day 39 MOZOMOZO-MOCOMOCO

[写真]スフィンクス。

 オフィスに5歳くらいの女の子が入ってきた。0歳の赤ちゃんを抱いている。赤ちゃんはきょとんとしている。
 女の子はオフィスの奥のゆりかごに赤ちゃんを寝かせようとした。けれども、片手で赤ちゃんを抱いたままゆりかごの布を広げるのは難しい。
 そこで彼女はわたしの隣に座っていた同級生を呼んだ。この子はいつもわたしのノートに何か字を書き込んでは、それを自分で採点してゆく。わたしが書きこんだ文章にもマルを付けてくれる。ありがたいことだと思う。ただし「9+9=16、OK」といった採点例も散見されるので、教育者としての資質にはやや疑問符が付く。
 この同級生に手伝ってもらって、女の子は赤ちゃんを無事ゆりかごに寝かせることができた。彼女は敢然とゆりかごを揺らし始め、あの「ヌゥーーーン、…ヌゥーーーーン」の歌(Day21参照)を歌い始めた。あ、この歌はやっぱり継承されてゆくものなんだ、とおもった。ただしベテランのスタッフの歌よりも息がやや短い。

 ところが赤ちゃんは袋状の布にうつ伏せに寝かされたものだから、首が反り返ってちょっと苦しそうに見える。そのうち赤ちゃんは泣き始めた。先日のスタッフは赤ちゃんを泣き止ませるためにあの歌を歌っていたけれど、今日の子は機嫌の良かった赤ちゃんをゆりかごに変な姿勢で押し込めて泣かせてしまった。

 あらまー、と思っていると、近くでパソコンを使っていた中学生くらいの生徒が、赤ちゃんをゆりかごから抱き上げてオフィスの外に出ていった。よくあること、というような表情をしていた。怒ったりうんざりしたりはしていないらしい。5才の子どもたちにも何も言わない。彼女らは「なんか最初に思っていたのと違うなぁ」という表情をして、お姉さんの後をついていった。

 なんだかうまいなぁ、と感心する。5歳の子どもたちが赤ちゃんを泣かせるまでそれとなく放置してそれとなく見守っていた中学生の間合いがすごい。赤ちゃんを抱き上げるタイミングも絶妙なものがあった。似たようなシーンを他にもちょこちょこ目にする。
 このやわらかな間合いはどこから生まれているのだろう、と不思議になる。子供たちはそれぞれうろうろしていて、集まったり離れたりしている。そのたびに、それぞれの歯車がやわらかく噛み合ってはすぐにほどける。
 「指導」や「教育」や「理念」の成果としてうまくいっているのではないように思える。もっと簡単に、ただただ、もぞもぞもこもこしている。人間にはもともと、ほどよく放置されていれば、穏やかにもぞもぞもこもこ育ってゆくような能力が備わっているのではないかという気がしてくる。あるいはまた、もぞもぞもこもこはSafe Communityの条件の一つであるかもしれない。

(2017年2月25日, 高原)

Day 38 スコール/シャワー/サーフェイス

 突然の断水は48 時間続いた。前触れ無く途絶え、前触れ無く復旧した。2回、体を洗った。穏やかなきもちで休んでいると、スコールが屋根を叩き始めた。

 豪雨なのに空が明るい。天球全体が淡く光るクラゲにすっぽりと覆われたようになり、天地の境界が急速に曖昧にされてゆく。

 30分経たずに止んでしまう。空を見た。

 雲の破片が低い高度でたなびいてゆく。積乱雲の主力は西へ流れてなおも灰色のスクリーンを地面に垂らしている。ときおり雲の暗がりから閃光が跳ね上がる。

 ほどけた雲のすき間から更に視線を伸ばすと、青空が急速に透明度を上げていて、宇宙への吹き抜けのようにも思える。何千枚もの光の膜が次々と天球から剥ぎ取られてゆく。大気の向こうの底抜けの深みがだんだんとコンタクトレンズと眼球の間へ浸透してくる。青色と暗さのグラデーションを探っているうちに、雲底がわずかに赤みを帯びてくる。西の方へもう一度目を向けると、紅い帯を引きずりながら裸の炉が「今日」の向こうへ退場してゆく。「暁の女神がそっと裳裾を引いた」という表現を思いつくけれど、ちょっと表現がコテコテだろうか、とも思い直す。子どもの手のひらほどの大きさのコウモリが飛び始める。

 シャワーを使えなかった2日間、肌の感覚にいやでも鋭敏になった。肌にまとわりつくのは「湿」の感覚である。あるいは、「水」「乾」「暑」「涼」「快・不快」「汗」「清」「汚」の感覚、さらにまた「匂い」「臭い」の感覚でもある。あえて一つに還元すれば、肌身の直接の実感である。スコールも日陰の涼しさも、すべて私のもぞもぞ伸縮するサーフェイスへと織り込まれてゆく。そのこと自体に気づき直す。自分が肌身を持っているということ、肌身に引きずられているのが自分であるということに気づき直す。

 さまざまな感覚が集約され発散されているこの肌身には、日本の風土が生む感覚が沈殿している。そこには、暑さとはこういうもの、湿度とはこういうものという感覚の経験や、汗をかいたら不快だし臭いも放つので早めにシャワーを浴びましょうという行動のプランやある種の社会的規範が含まれている。

 しかしその身体のまま、湿や雨や風や清汚の前提条件が相当に異なるこの国に乗り込んだ。日本と全く同じ肌感覚を維持することは当然不可能だけれど、風土固有の条件に適応するように肌の実感や行動を即座に組み替えることも難しい。当地の人々にとっては安定した風土に対して、日本の雨と風、汗とシャワーの経験を沈殿させた私の肌は当然齟齬を起こし、別の反応を作り出してゆく。そしてしばらくは、その反応自体の沈殿を待つほかない。

 この当然のことがこれまで強く意識されなかったのは(それらが意識されるとしても、スコールや強い日差しの視覚的・音声的な印象が主であって、肌の感覚としてではなかった)、汗をかいたらシャワーを浴びるという行動様式を日本から持ち込んで保つことに成功していたからである。それが不可能になったとき、はじめて自分の肌は風土に暴露されはじめた。肌は、汗や蒸気や不快さの実感をどんどんと大気に向けて開放していた。サーフェイスと大気がざわざわしたプネウマを交換していた。シャワーが使えなくなってそのことに気づいた。汗や埃の層を流水で肌から取り除くことが、逆に風土を私に対して隠蔽していたことになる。

 水はまた、単に物質ではなく、インフラでもある。水を理解することは社会を理解することでもある。いつでもシャワーを浴びられる、湯水が自由に使える(”湯水のように”という表現自体、ある文化的な固有性に根ざしている)ことを前提とした行動様式は、汗とはいつでも流せるものという肌への理解と同時に、社会とは私に水を常に提供してくれるものという理解を前提にしている。つまり、肌の感覚は、湿度や汗や涼といった直接的な実感から延伸して、社会や制度といったことへの実感の基礎にもなっている(たとえば原発が停止することは、日本経済の停滞の可能性や安全性についての検討といったことよりも、夏にクーラーを使えなくなるかもしれないという「じっとりとした感じ」としてまず把握される。そして、クーラーが使えなくなれば仕事もなるほど捗らないだろうという連想から「経済への影響」を実感的に捉えようとする)。つまり、風土の肌身的実感と、社会への実感とは複層的な一体構造を成していて、その構造の中心に私のサーフェイスがある。

 社会的なものへの理解の一つの核になるのは、労働の概念だろうと思う。夜中に水が出なくなったが、翌朝に出るとは思えなかった。この国の人々は、市民への迷惑を最小限にするために徹夜で水道工事を完了させようといった考え方はしないだろう、と思えた。それは怠惰や勤勉とは別の次元のことである。「汗水流して働く」という表現が持つ一種の価値観は日本の風土や社会環境を前提にしていて、この国のスコール的風土にそのまま持ち込むことはできない、ということは肌的実感として確かだと思う。

(2017年2月24日, 高原)

Day 35 水が出ない

 シャワーの水が出なくなった。理由はわからない。お湯は元から出ない。

(2017年2月21日, 高原)

Day 34 バーン・ターン・ナムチャイ財団とプラティープ先生

[写真]みんなで絵を描きに行きました。

 ここの孤児院の建物は窓が多い。壁そのものが少ない。高い塀やフェンスも無い。自然、視線が建物の内外に通る。子供がばたばた走っているのがだいたいどの部屋からも見える。スタッフはしばしば部屋から子供を呼び止めて、あれを持ってきて、これを案内してあげて、と声をかけている。ここと比べると日本の小学校や幼稚園は拘置所あるいは兵舎に近いのではないかと思える。あるいはまた、この仕切り壁が少ないかんじから、志津川小学校の避難所のことを思い出しもした。

 タイに来て一ヶ月が過ぎた。高原のインターンシップ受け入れ機関であるバーン・ターン・ナムチャイ財団は、タイ南部パンガー県、インド洋沿岸の田舎町にある孤児院である。

 なぜこの田舎町に立派な孤児院があるのか。財団が生まれた経緯を、1ヶ月目の中間まとめの代わりとして紹介してみたい。

 バーン・ターン・ナムチャイ財団のことを説明するためには、まず「プラティープ先生」のことを説明しなくてはならない。

 プラティープ先生(プラティープ・ウソンタム・秦)はバンコクのクロントゥーイ・スラム出身の女性活動家である。スラムの貧しい子供たちのために学校を開いた。1978年に28歳の若さでマグサイサイ賞を受賞している。プラティープ先生はその賞金を元手に、ドゥアン・プラティープ財団を設立した。このDP財団がバーン・ターン・ナムチャイ財団の母体となる。DP財団は今もクロントゥーイ・スラムの住民の支援活動を続けている。

 バーン・ターン・ナムチャイ財団のひとにプラティープ先生のことを聞いてみると、みな表情が変わる。やわらかい感じ、懐かしむ感じ、あの立派な大切な彼女のことをこの異邦人にもぜひ教えてやりたいという気持ち、溢れるような、素朴な尊敬。そういう表情になる。

 わたしがいつもお世話になっているトイ=センセイは「彼女はグッド・ボスだ」と3回続けて言った。財団事務局長のロッジャナーさんは「kind, clever, strong」と評した。ロッジャナーさん自身がスラムの出身で、プラティープ先生に上級学校へ進学させてもらったのだという。自分が活躍するだけでなく、周囲がどんどんその人の背中を追いかけてしまうタイプの偉人がいるが、プラティープ先生はそういうトクベツな輝きを持ったひとらしい。

 2004年12月26日のインド洋大津波の直後、プラティープ財団はすぐにスタッフをパンガー県に送り込んだ。送り込んだというか、プラティープ先生自身が乗り込んだ。派遣チームにはプラティープ先生の他に、ロッジャナーさんと、トイ=センセイがいた。

 ロッジャナーさんもトイ=センセイも、当時DP財団のスタッフだった。クロントゥーイ・スラムでソーシャルワーカーのようなことをしていたらしい。
 
 DP財団の3人(おそらくその数は順次増えただろうけれど)は避難者キャンプを立ち上げ、衣食住、衛生、医薬の支援を続けた。キャンプを運営するだけでなく、周辺コミュニティを地道に歩き回って実情を把握していたらしい。おそらくクロントゥーイ・スラムでの活動ノウハウが下地にあったのだろう。
 
 そして2年が経ち、住宅の再建が進み、避難キャンプは空っぽになった。ただ、ツナミで親を亡くした子供たちだけが、どこへも行くところがなく取り残されていた。DP財団はこの子供たちのために現地に孤児院を設立することにした。ロッジャナーさんが事務局長となり、トイ=センセイもそのまま残った。要するに支援に乗り込んだまま帰らなかった。

 タイ南部でモーケン族の研究をされている文化人類学者の鈴木佑記先生が「多数の支援団体が被災地に来たが3年でみんな引き上げてしまった」と嘆いておられたが、DP財団のひとたちは数少ない例外だった。彼女らは、残って根を張った。

 なぜそれができたのだろう、とおもう。この子らをどないすんのん、というのがシンプルな起点だったと思うけれども、そのあたりの事情は改めて聞いてみたい。

 財団設立の際、イギリスの救急救援チームの隊員たちが資金面でバックアップした。かれらは「ハンズ・アクロス・ザ・ウォーター」という慈善団体を有志で結成し、イギリスやオーストラリアから募金を集めた。最初の建物が建った。

 DP財団スタッフが核になり、英豪の支援者の資金援助によってバーン・ターン・ナムチャイ財団が設立されることになった。財団のロゴマークは、DP財団のマークと「ハンズ」のマークを組み合わせた意匠になっている。

 孤児院が設立されたとき、引き取られた子供の数は20人だった。設立から10数年が経ち、現在在籍する子供の数は105名(のはず)。2週間前も赤ちゃんが来た。子供が増えているのは、親との死別の他、育児放棄、虐待、極度の貧困といった事例の子供を引き取り続けているからである。日本では児童相談所などまず行政の福祉部門がケアをするケースだと思うのだけれど、タイでは、少なくともこの地方では、そうした福祉行政は十分に機能していないらしい。民間組織であるバーン・ターン・ナムチャイ財団が子供たちを保護し、養育し、大学へも行かせている。

 財政面は上述の英豪の支援者による寄付のほか、タイ国内からも一定の寄付があるようだ。政府の助成は一切無いと聞いた。
 

(2017年2月20日, 高原)

Day30 メェン=センセイのこと

[写真]浜辺へ行きました

 孤児院に来て1週間が経ったころ、メェン=センセイがわたしの隣に座って、メェン=センセイは故郷へ帰ると告げた。メェン=センセイは「真ん中、真ん中ネ」と何度も繰り返し言って、わたしの肩を優しくたたいた。

 メェン=センセイは孤児院のスタッフのひとりである。中年の小柄な男性で、誰に対しても物腰がやわらかい。ふだん何をしているのか、よくわからない。たまに他のスタッフがメェン=センセイにあれこれ愚痴を言っている。メェン=センセイはじっとじっと聞いている。じっとじっと聴ききって、ようやく落ち着いて何かアドバイスをしている。

 メェン=センセイは、この孤児院で唯一、日本語が話せるタイ人である。話せるのだけど、あまり流暢ではない。話がいまひとつ噛み合わないことが多い。しかし、いつも日本語で話しかけてくれて、これはタイ語で何と言うのだと教えてくれる。ことばの通じない異国にあってこれほど心休まることはないことを私は学んだ。メェン=センセイはใจดี(チャイ・ディー=心が・良い=優しい)のひとで、そしてわたしにとっての生きたロゼッタ・ストーンだった。それは言い過ぎか。

 そのメェン=センセイが故郷に帰ると言う。メェン=センセイの故郷はタイの東北部、貧しい農村地方である。家屋は伝統的な高床式で、広大な田畑があり、米と芋と鶏と魚が豊富にあり、現金収入がきわめて少ない。若いころにバンコク出身の恋人と結婚しようとしたところ、恋人の父親に、そんな貧しい地方の男との結婚は許さんと言われた、と話していた。いまは2児の父である。

 これが最後のお別れだ、というような雰囲気をメェン=センセイはかもしだした。メェン=センセイの「真ん中ネ」は、上に向けてがんばりすぎず、下に向けてだらけすぎず、要するに丁度よい中庸を保てという教えだった。バンコクで20年間公務員として勤めたというメェン=センセイはいま、アンダマン海沿岸に棲む小さな老荘のようにして、孤児院の中をうろうろ歩き、子供たちにも若いスタッフたちにも、「真ん中、真ん中ネ」と声をかけている。

 そのメェン=センセイとお別れしなくてはならない。わたしはとても心細くなった。これこそが旅の出逢いと別れなのだと学んだ気持ちになった。この良き人に、わたしは深く感謝をした。

 ところが3日後にメェン=センセイは孤児院にふたたび帰ってきた。あの別れの雰囲気は何だったんだという気持ちになった。わたしはメェン=センセイと自分の日本語会話能力に留保を付けることにした。そしてセンセイは今日も高原を見守ってくださっている。たまにエライお坊さんの本を紹介してくれるが当然全く読めない。

(2017年2月16日, 高原)

Day 25 こいつは迷子になりかねないので

[写真]参道を降りる少年たち。

 伸び盛った棕櫚の群生の葉がちょうど屋根のようになっていて、そこで雨宿りをするのかなと思ったら、みんなずんずん先に歩き始めたので、じぶんも最後尾について参道を登った。

 土曜日の昼過ぎ、自宅でごろごろしていたら、とつぜんメェン=センセイとトイ=センセイ、数人の生徒たちが呼びに来た。これから寺院に行くので準備をせよという。あわててカバンにメモ帳やカメラを突っ込む。

 孤児院の生徒たちは2台の車に分乗する。私が乗ったのは幼児クラスの車で、もみくちゃになった。15分ほどで到着する。下車する。雨が降り始める。メェン=センセイが近くの小山の上の尖塔を指差し、あそこに行きますヨーと言う。

 生徒たちは慣れた様子で参道へ向かう。誰も傘をさしていない。私も体に雨粒を受けながら歩きはじめる。雨宿りは無し。

 参道の入口にテントが張られていて、ボランティアらしき中高生が無料で水やジュースを配っている。参詣のために山を登る者に水を与えるのも一つの功徳なのだろうか。

 参道の勾配はなかなかきつい。タイは平地が多いと紹介されるが、南部のこのあたりは地形が厳しい。ノコギリの刃のような山並みがざくざくと地面から突き上がっている。土は真っ赤である。火山による造山運動が荒々しい地形を作ったのかもしれない。

 蒸し暑い。雨が額に当たる。分厚い葉を持つ樹木が参道の両脇から迫ってくる。ここが熱帯圏の国だということを改めて知る。幼児でもサンダル履きで登ってゆける程度の道のりだが、頭がぼうっとしてくる。緑と雨の豊かさに誘導されて、異界に引き上げられてゆくような気分になる。室戸岬の灯台に初めて登ったときのことを思い出す。

 さいきんスタッフから少しずつ、この子は虐待されていたのをここに連れてきたとか、この子は親にゴミ箱に捨てられてたんだとか教えてもらっている。重いなーと思う。

 けれども、とりあえず日頃の生徒たちはあっちこっち自由にうろうろしていて、きょうも特に指示や命令を待たずに自分たちで判断して登ってゆく。

 登りきると、尖塔がある。尖塔は正方形の敷地の中心にあり、正方形の一辺に信徒が集まって何かを待っている。

 待っていたのは僧侶たちの登場だった。尖塔の裏手から20人ほどの僧侶が現れ、ひな壇に並んだ。行儀よく立ったまま何もしない。よく見ると、信徒たちが整列した僧侶の写真をスマホで撮っている。撮影会である。チェキは無かった。

 しばらく撮られると、僧侶たちは再び一列になって正方形の辺上を歩き始めた。待ち構えていた信徒たちが深々とお辞儀をし、先頭の高僧が持つお盆に何かを置いてゆく。僧侶の列の両脇には制服姿の学生が控えており、足元に花びらを撒いてゆく。そして僧たちは去る。

 撮影からお見送りまで全体として宝塚音楽学校の卒業式のようなかんじで、なぜ人々がここに集まってくるのか、いまひとつピンとこなかった。美しく着飾った地元の名士らしき人々もいたので、とにかくこの場所に参画することが地域コミュニティのメンバーとして求められる行為であるのかもしれない。あるいは、高僧は見るだけ、近づくだけでありがたいのかもしれない。

 帰り道は男の子らのグループの後をついていった。財団全体で、この異邦人は目を離すとふらふら迷子になりかねないからしっかり見守っておかねばならない、というコンセンサスができはじめているように思われる。3年生くらいの男の子が私の手をとって、こっちやでと誘導してくれる。

 参道を降りるとき、きれいなお洋服をしっかり着せてもらった小さな子供とすれちがった。両親と手をつないでいる。裕福な階層の家庭なのだと一目でわかる。

 あっそうか、世の中にはこういう子もいたんだ、と気づく。びっくりする。そんなことにびっくりしたこと自体にびっくりする。孤児院の生徒たちはくたびれたTシャツが普段着である。この3週間かれらばかり見ていたので、私は、この世界で子供はかれらだけだといつのまにか思い込んでいた。そうではなかった。外の世界があった。自分はその外の世界から来たのに。

 うまくまとめられなくて、まとまらないまま書きました。

(2017年2月14日, 高原)

Day 24 引き波

 昼食のあと、トイ=センセイにツナミの絵の写真を見せてもらった。トイ=センセイは孤児院の美術担当のスタッフである。ツナミのあと、トイ=センセイは被災した子供たちに絵を描かせた。それらの絵そのものは散逸してしまったらしい。わたしが見せてもらったのは、絵を一枚ずつ撮影した当時の写真である。

 ぼろぼろになったアルバムのページを一枚ずつめくってゆく。どれも、激しい。絵の具の原色をそのまま単純に塗りつけていて、線は迷いがなく荒い。ときたま波の色が赤や黄色に塗り込まれていてどきっとする。

 描かれているものを見る。高い波、逃げる人、飲まれる人、倒れる木、内陸へ運ばれてゆく船。

 多くの絵ではツナミのかたちは記号化されている。天気予報の「高波注意報」のような形の「波」である。

 ツナミの来襲を横から断面図的に捉えるものが多い。実際にその子供が五感で捉えた一人称的視点から、モデル図的な視点への変換が行われている。

 記号化された波のかたちは、その変換の際に、社会的に共有されたイメージ資源を借りてきていることを示している。記号化された形状に頼ることで、自身の体験を社会的に共有可能なものへ加工してゆくのかもしれない。

 直接的な一人称視点の記憶から客観的な俯瞰的図像への移行は、言い換えれば波に飲まれた(飲まれかけた)自分が仮想上の安全地帯に脱出することでもある。

 ところがそうした絵に混じって、まさに目の前に水の壁が迫っているような絵が出てくる。画用紙一面に青黒い水しぶきが湧き立っている。これを単純に「一人称視点の絵」と呼ぶべきではないかもしれないけれども、こうした絵の作者はモデル図的な絵への脱出を敢えて選ばなかったのかもしれない。

 絵の写真を一枚ずつ見ていると、押し流され、引きずり込まれるような感覚に襲われる。トイ=センセイは何度か、こどもたちの心から溢れたものだ、と言った。単純な表現だけれど、そうかもしれないとおもった。かれらの心そのものが逆巻く海であり、そこから溢出したものが押し寄せ、画用紙に叩きつけられている。絵を見ていると、その流れの引き波に体を奪われ、画家の海に引きずり込まれるような感覚になる。

 ところがそのことをトイ=センセイに伝えようとするが、「引きずり込まれる」という表現を英語でどう言えばよいのかわからない。どうしても言えなくてジェスチャーで示すと、なんとなく伝わったようなかんじになって、トイ=センセイは「この絵を描いた子はヤシの木の幹になんとか掴まったのだけれど、周囲はみんな流されたり逃げたりして誰も気づいてくれなくて、寒さに震えながら、助けてもらうのを木の上でひとりで待っていた…と話していた…」と言う。それはほんまに寒くてさびしくて怖かったやろなぁと思っていると、一瞬、トイ=センセイが千マイル先を見るような眼差しになる。いただいたコーヒーを飲み干して美術室を辞去する。

補記1:「一人称的な視点」と「モデル図的な視点」の区別については、谷徹『これが現象学だ』講談社現代新書のマッハの寝椅子の図と自然主義的な図との対比を前提にしている。

補記2:被災児童に絵を描かせるのが良いのか悪いのかということは、日本でも1995年以来しばしば論争になる。少なくとも、絵を描いたから/描かなかったから「PTSD」を発症する/しないといった、単純な図式で処理できるようなものではないとおもう。

(2017年2月10日, 高原)

Day 22 「おかまいなく」という特殊解

[写真]美術室の住民

 財団で生活を始めて戸惑ったのが、ここでは「おかまいなく」がどうやら通用しないらしい、ということである。日本では「おかまいなく」は便利な表現である。礼儀正しさと親密さを保ちながら、双方の心理的緊張を一段階下げるはたらきがある。客人と主人の両方が使える。

 タイでもこの「おかまいなく」を使いたくなるのだけれど、うまくいかない。これに相当するタイ語や英語の表現を自分が知らないという問題だけではないように思える。対人関係のある種の「間」や空気や儀式としての「おかまいなく」が、どうしてもここでは発動しない。裏返して考えると、この表現はあくまで日本の文化的な環境のなかでのみ通用する特殊なものだったのかもしれない。

 一方、タイ語には「マイペンライไม่เป็นไร」という独特の表現がある。日本語に訳すなら「ええんや、ええんや」や「大丈夫ですよ」といったニュアンスになるかもしれない。「おかまいなく」にもある程度は近い。しかし決して同一ではない。「マイペンライ」にもまた独特の「間合い」があって、異邦人が使いこなすのはけっこう難しい。

 「おかまいなく」は日本文化における一種の特殊解である。これが用いられるのは、一方が過剰な世話を焼こうとしたときに、他方がそれを制止する状況である。ただし過剰な世話はいったんは試みられなければならない。それができない者は「気が利かない」とされる。相手からの過剰な世話を制止せずにただそれを受益し続ける者も、強欲であるとみなされる。目上の者のコップが空いたときに目下の者が即座に酌を注ぐ、目上の者はそれを確認した上で「いやいや結構、手酌で参る」と言うのもこの例である。

 どのタイミングで相手からの世話を制止するか、その間合いはまさしく「間合い」と表現するほかない。日本では、この間合いの微妙繊細な調整を経たうえで、初めて双方の個々の存在が確立され合う。その工程を気にかけないものはしばしば「空気が読めない」などと虐げられる。
 
 新来の異質分子が組織のなかに溶け込もうとするときも、この「おかまいなく」のやりとりが一種のイニシエーションとして機能する。組織の側は、新人や客人に茶菓子を豊富に振る舞う。新人の側はある程度それを受け取った上で、たいへん恐縮した様子を見せ、「どうぞおかまいなく」と言う。次に、新人の側は、自分なりにできることを探して、たとえば湯呑みを洗おうとする。そうした努力はたいてい見当ハズレなのだが、組織の側は何よりその態度自体を誠意として評価し、「いいんですよ、おかまいなく」と言う。これを何度か繰り返しているうちに、主人と客人、先輩と後輩、上司と部下の境界線が双方にとってゆるやかになり、関係がスムーズになってゆく(本プログラムの履修生諸姉兄におかれては、たとえば公共サービスラーニングにおける体験と比較照合されたい)。

 ところがタイに来てみると、この「おかまいなく」の状況にうまく持ち込めないのである。具体的には、相手の「おかまいなく」を誘引するための過剰な世話の試行と提示が、必ずしも善いものとして受け取られない。
 なぜかというと、「過剰な世話」は、他の人の労働を奪い、時間の流れを不当に傷つけ、共同体のリズムを乱しうるものとして理解されるからである。

 この、タイにおける労働と時間の関係についての考察は、別の日に改めて書きたい。ここでさしあたり述べておきたいことは、日本語の「おかまいなく」もまた、おそらくは労働や贈与や時間といった、人間の存在様式に関わる文化的な諸条件を基盤としているのだろう、ということである。「おかまいなく」は日本文化の特殊解である。

 以上のように考えると、たとえば「おもてなし」といった表現も、「おかまいなく」と表裏一体の共同存在の様態であって、やはり日本文化の特殊解の一つにすぎないのではないかと思う。「おかまいなく」を使いこなせる者のみが「おもてなし」の接受を愉しむことができる。「おもてなし」が文化的な諸条件から導出された特殊解であることを自覚した上でそれを海外に発信するのなら良い。しかし、そうした自覚を素通りして、表に現れている外形のみを商品として輸出するなら、結局は自己理解の薄さを他文化からの客人に見抜かれるだけなのではないか。
 などと立派なことを書こうとしてみる日もある22日目のタイはけっこう初夏です。

(2017年2月8日, 高原)

Day 21 オフィスで遭遇した歌

[写真]La Chambre claire.

 バーン・ターン・ナムチャイ財団には、104名の生徒と、30名近くのスタッフがいる(ただし生徒のうち約20名は進学のため他地域に居住している)。

 スタッフ数のわりには、オフィスは広くない。座席数は8つ。わたしが使わせてもらっている机には、パソコンとプリンタのほか、乳児用ミルク、乳児用クリーム、何かの豆の袋、竹串の束、謎の家計簿、エライお坊さんらしき人の本が載っている。机の下を見ると縄跳びと絵本がある。いま引き出しを開けたら、人形用のカツラが出てきてギョッとした。他の引き出しでは、重要そうな書類束のうえにアルミ製のレンゲスプーンが乗っていた。

 このオフィスには子供たちがしょっちゅう入り込んでくる。16時ころ、学校から帰ってくるとオフィスに駆け込んできて、スタッフに何か話している。そのまま床に座ってダベる子もいる。中学生くらいの男の子が駄菓子屋で買ったらしいスナック菓子を歩きながらボリボリ食べている。小学校低学年くらいの子供が、スタッフ用のパソコンでゲームをしていることもある。午前中はよく赤ちゃんがハイハイしている。

 ここは職員室だから静かにしなさい、といった雰囲気は無い。散らかっているけれど、不潔ではない。たまに騒がしいけれど、うるさくはない。それぞれが必要なときにそのままに居る。

 「居る」ということばではあまり正確ではないかもしれない。表現しづらい。それぞれがやわらかな「be」をしていて、肩肘張った主語はそこにあまりついてこない。それがタイの文化的な特色なのか、この孤児院に独特の雰囲気なのかは、わからない。

 あるとき、大きな声で泣く赤ちゃんを抱きながら、中年の女性のスタッフがオフィスに入ってきた。かのじょは赤ちゃんをブランコのようにゆらゆら揺れるゆりかご(正確には籠ではなく袋状の布)に入れ、あやしはじめた。「あやす」というか、ただそのゆりかごを一定のペースで揺らしながら、少し低い声を出して赤ちゃんに聞かせ始めた。

 その声は歌のようだけれど旋律もリズムも歌詞もなく、うなり声のようだけれど優しくて、語りかけているようで何の意味もなかった。息を少し鼻に含ませるような声で、強引に書き出すなら「ナウゥーーーーーーーーー…ン。…ナゥゥゥーーーーーーーーーーン。……ハヌゥーーーーーーーーーーーーーーーーーン」といったかんじだった。単調だけれど、ひとつの息ごとにわずかずつ音程が変わっていった。穏やかな息の流れだけれど、ひとつずつに息の力があり、どことなく憂いを帯びていた。赤ちゃんはすぐに泣き止んだ。ふしぎだった。

 これはいったい何なのか。初めて聞いた歌だったけれど、赤ちゃんがこれで泣き止むということはすぐに納得できた。居合わせていたわたしも、両の耳でその歌をしぜんに聞いていた。

 数千年前から変わらない人類最古の歌のひとつなのか、あるいはこのスタッフの最近の発明なのか。よくわからないものごとにいろいろと出会う。

(2017年2月7日, 高原)

Day 18 音について

[写真]訪問客。

 タイに来てから雨にほとんど遭わなかった。それが今日、買い出しの途中で突然スコールに降られた。透明な光の糸が絶え間なく車道に叩きつけ、雨宿りをしている軒先から眼を動かすたびに淡い虹があらわれた。一頭の狩りバチが細い竹の節のなかへ隠れた。積乱雲がひしめきあっていた。昨日までのうちにアンダマン海から吸い上げた蒸気を大気がついに持ちこたえられなくなり、断続的に重力に受け渡しているように思われた。

 バンコクにいるとき、ASEANセンターの望月先生に「タイでは雨が降るとインターネットが遅くなるらしい」という話をお聞きした。その理由は、回線ケーブルの品質が低いためケーブルが雨の音を拾ってしまう、ということだった。本当かどうかわからないけどね、と先生は付け加えられた。伝送されてゆくパケットの合間に雨音のリズムが混じり込んで別の波形が作られ、そのために都市の速度が遅くなってゆくというのはなかなか愉快な光景だとおもった。

 夕食後、財団の庭で書きものをしていると、ふたたび激しく振り始めた。昼よりも雨勢は強く、闇の中から一斉にとりかこんできた。日本の雨のような前奏がほとんどなかった。雨粒にまっすぐ叩きつけられた屋根板がぱこつんぱこつんと大きな音を鳴らした。何かを考えていたつもりが、聞いているうちに、考えの流れそのものが雨の音に占領されている。耳と耳の間が、指先や太腿が、ぜんぶ雨の音になる。意識が日本にいるときのように保持できない。

 西洋哲学は常に意識Bewußtseinを問題にするけれど、それはドイツのように寒くて静かな国における特殊解にすぎなかったのではないかと、ふと思った。暴論か。しかし実際、明晰な意識が常に既に世界を切り開きつつ自己に絶えず還流しているという大前提を、この国にそのまま持ち込んで良いものだろうかと迷う。天と地の間で立ったりしゃがんだりしているこの何者かを問い詰め始める際の一個のピボットとして選び出された「意識」や「存在」という概念にあらゆる地域・文化を貫通する普遍性を認可して良いのであるか。もしかしたら意識(を焦点化する西洋哲学)とはある地域のみに生息するヘラジカの立派な角(のヘラジカ自身による自己観察記録)のようなものにすぎないのではないか。などと考えたりもした。

(2017年2月4日, 高原)

Day 14 芽吹く文字

[写真]ひらがなを勉強するトイ=センセイ

 タイ文字を勉強している。タイの文字は独特のかたちをしていて、西洋のアルファベットとも、漢字とも直接のつながりは無い。なので、わたしはゼロから覚えなくてはならない。

 タイ文字は44の子音と、10種類以上の母音記号、数種類の発音記号から成る。

 タイ語は難しいと聞いていた。確かに難しい。読むときの難点は母音の判別にある。母音記号が子音文字の上下左右に付加され、二重母音も多くあるため、一つずつの音節の区切りを読み取ることが難しい。話すときの難点は声調にある。タイ語は中国語と同様に声調を持つ。日本語にはこれが無いから、なかなか意識しづらい。

 このように難しいタイ語だけれど、タイ文字は好きだ。最初に見たときから好きになった。たとえばわたしがインターンシップに来ている「バーン・ターン・ナムチャイ財団」はมูลนิธิ บ้านธารน้ำใจと表記する。土から蕨が生えているような紋様で、なんとも美しいなとおもった。

 「雨」はฝนと書く。「フン」と発音する。字をじっと見ていると、雨滴が土に当たって跳ねているように見えた。

 美しさの鍵は、直線と小円と優美なカーブをシンプルに組み合わせる構造にあるように思われる。しかしこれは初学者にとって難しい点でもある。小さな円の向きや棒の長短で字が厳密に区別される。たとえば「ผ」「ฝ」「พ」「ฟ」「ฬ」はいずれも全く別の字である。ひらがなの「わ」と「ね」、「め」と「ぬ」の違いに近いかもしれない。

 このように美しいタイ文字だけれど、バンコク市街で多く用いられていたのは、ここに載せた教科書体のようなフォントではなく、西洋のアルファベットに巧妙に似せた書体だった。本当はタイ文字のタイ語なのだけれど、外国人が見るとSやaやWといったアルファベットに一瞬かんちがいするようなフォントが看板などでしばしば使われている。英語表記かと錯覚するがそうでない、という体験を何度もした。

 せっかく美しいタイ文字なのに、それを避けて西洋崇拝のようにアルファベットっぽい書体を使うのは、なんだかもったいないなぁと感じた。しかしやはり、英語っぽくすることが「カッコイイ」のだろう。「コンプライアンス」「グローバリズム」「リテラシー」などといったカタカナ語が氾濫する国の住民が文句を言う資格は無いかもしれない。

 これまで見たタイ文字のなかで素直に感動したのは、孤児院の幼いこどもが私のノートに楽しそうに書いてくれた何かのフレーズだった。大人が最小限のエネルギーで走り書きするのと違って、一字ずつ、はっきりと書いていた。書くことそのものの歓びにあふれていた。蕨や草の新芽のような子音文字のうえに書かれた、母音記号やアクセント記号が、葉の上を飛び交う小さな虫のようだと感じた。

 こういった見方は一種のオリエンタリズムであろうかとも思うけれど、いまのところ、タイ文字をこのように楽しんで学ばせてもらっている。

(2017年2月2日, 高原)

Day 10 垂直のものと水平のもの

[写真]裏庭の祭壇

 Baan Than Namchai Foundationにたどり着いた。財団が所有する宿泊施設に自動車で送ってもらう。宿泊施設はナムケム村という漁村にある。夜が来る。

 この夜と朝、ふしぎな体験をした。

 夜がとても暗くて静かだった。タクアパーは田舎町である。ナムケム村はさらに田舎である。灯りが少なく、聞いたことのない鳥の声が届いてくる。そのまま闇に引き入れられるようにして眠ってしまった。けれどもそれは、暗さが自分の身体全体にそっと浸透する過程でもあった。それは浸透してすぐ満たした。そして朝が来て目覚めたのだけれど、ただ身体と意識が夜のなかへいったん消失して、光のなかへ再び再構成されただけだった。眠っていたのか、目覚めたのか、はっきりしなかった。客観的には熟睡していたのだろうけれど、星明かりに支えられた汐がわたしに満ちて引いたのを受け入れていただけで、それはわたし自身の意識や脳や身体の動作ではなかった。眠りに「落ちる」というかんじがどうしてもしなかった。遠浅の浜をずっと向こうの方まで歩いて渡り、そしてまたこちらまで戻ってきたようなかんじだった。

 このような眠りの体験は初めてだった。日本でもバンコクでも、自分は眠りを垂直方向のもの、上下運動としてイメージしていた。あるいはまた、眠りとはぎんぎんと張り詰めている知覚のスイッチをなんとかして切断して、世界から自分の存在をいったん縮退させ、神経の休養を急ぐ行為だった。都市の光と音は激しいので、カーテンをしめてぎゅっと眼をとじなくてはならない。自分の脳のスイッチを順に切ってゆき、思考を強引に無意識の海溝に降下させてゆく。そうしたプロセスのどこか一つにでもミスがあれば、痩せた実存が不眠症という存在様式へ永遠に寝返りを繰り返すのである。

 ところがその夜、眠りはただ水平方向の往還だった。だから、「深い」というかんじさえしなかった。それでいて、ふしぎな再生の感覚があった。

 そしてその朝、コーヒーをいただいていると、施設の職員さんが、豪華な料理をぎっしり載せたお盆を建物の裏手に運び始めた。じぶんもお盆をひとつ運んだ。その先には祭壇があった。料理は旧正月のお祝いのためのものだった。お盆は正方形の祭壇に敷き詰められた。

 タイの祭壇はどこも屋外に設置されている。ここでもそうで、芝草や低い灌木が生えているところへ、祭壇がちょうどぽっかりと陽だまりになっている。職員さんたちがお盆を置いてゆくのを、すこし離れたところから見守る。職員さんがお線香の束に火をつける。日本の線香の二倍くらいの長さがある。わたしも呼ばれる。お線香を分けてもらい、合掌の手のなかに挟み、地面に正座してお祈りする。そのあと、お線香をお供えの料理に直接挿してゆく。煙が立ち上る。

 祈りの場所全体が明るいことに強い印象を持つ。日本のお仏壇や神社のご本尊は、たいてい奥まった薄暗いところに引っ込んでいる。それは彼岸へのゲートのようになっており、異界と現世との水平方向の動きをガイドしている。一方、タイの祭壇は、太陽の光がまっすぐ素直に天上から差し込んでくる。ただし、お告げの天使が降下してくるかんじでもない。地面に直接、裸足で立っていることが強い効果を及ぼしているように思える。双葉や虫が湧き出てくる地面から、立ち上る煙を通じて、太陽の方へ。高さ2メートル弱の祭壇だけれど、それは実のところ大地から天空へ垂直方向の経路を開いている。

 日本では垂直のものが、ここでは水平のものでありうる。日本では水平のものが、ここでは垂直のものでありうる。わたしはこうした対比を他にも探してみようとおもった。

(2017年1月31日, 高原)

Day 8 バンコク刻印

 発車時刻ぎりぎりに南バス・ステーションについた。このステーションから夜行バスに乗ってバンコクからパンガー県へ入る。夜行バスの発車時刻は19:05、到着したのは19:02ごろ。スーツケースを引いて全力でステーションを駆け、夜行バスに乗り込む。バンコクの印象を書き留めておくことにする。

 バンコクでわたしは頭痛にも腹痛にも襲われなかった。ただ、目眩のように、何度も視界がばちばちした。限られた時間のなかで、多くのものをいちどにたくさん見た。

 駅を降りると、片脚の無い男が地面に寝そべって物乞いをしている。2人の小さな子供を抱いた女がうずくまっている。老人がゴミ捨て場から何かを探している。屋台からもわもわと美味しそうな煙が上がっている。日本人向けの料理屋や欧米人向けのレストランが間接照明をまきちらしている。「オイルマッサージ」「ぬるぬる」「萌え」「秘しょ」と日本語で掲示された店頭のドアを半開きにして肉付きのよいおねーさんがお客を呼び込んでいる。そのマッサージ店の玄関先の地面に小さなお弁当が置かれていて、線香がご飯に直接挿してある。昼になるとアリがびっしりたかっている。犬がバイクを避けてスラムの通りを横切る。スカーフをかぶったムスリムの女子高生がショッピングモールのスマホ売り場で新製品をながめている。見上げると空色のガラスに覆われた高層ビルが視界にすぐ入る。六本木ヒルズみたいなタワーマンションも近くにある。埋め立てを免れた運河では通勤客を載せたはしけ船が接岸し、船員がぱっと降り立って、おそらく100年前から全く変わらぬ仕方でもやい綱をくるくると杭に巻きつける。

 これらがみんな一つの区画に同居していることに衝撃を受ける。地を這うものから天を突くものまで、すべてがひとつの視界に収まってしまう。そのなかで人間の苦痛や享楽がなんら区画整理されることなくごそごそと生きて混在している。ひとことで言えば“混沌”としているのだけれど、混沌にも何らかの内的な論理が脈動しているはずである。その論理を理解したいと思うし、そうした脈動をわずかにも実感してみると、では日本の都市や生活には何らかの脈動があったかどうか、たいそう心細くなる。

 京都、大阪、神戸にそれぞれ都市自身の発展してゆく精神/ガイストがあることをわたしは知っている。けれども、じつはそうした諸都市も、自身の論理を深く自覚することをせず、昨今はエネルギーの抜け殻を寄せ集めて見栄えを飾ろうとしているだけなのではないかと感じる。

(2017年1月30日, 高原)

Day 7 杵と失業率

[写真]ASEANセンターと望月先生

 ヌンさんが帰宅してしまった。

 ヌンさんは阪大ASEANセンターの現地スタッフである。わたしはASEANセンター長の望月先生に会いに来た。望月先生は文学研究科の哲学講座の教授である。望月先生は所用で少しセンターを空けていた。わたしはセンターのオフィスで先生を待っていた。17時を過ぎて、ヌンさんは帰宅してしまった。オフィスにはわたし一人が残された。いちおうは部外者であるわたしを放置して良いのだろうかと思ったけれど、ヌンさんは決然と帰宅した。すぐに望月先生が帰室された。タイ人はほぼ絶対に残業をしないと望月先生に教わった(あとから聞くと、高原を置いて帰宅しても良いと先生はヌンさんに指示していた由である)。

 タイ人は残業しない。17時を過ぎるとみんな一斉にオフィスから帰り始める。あくせく残業しているのは日本人だけだという。それでとりあえず社会が回っているなら良いことだとおもう。日本ではひとびとが長時間残業しているのに社会がだんだん回らなくなっている。この差は何に起因するのであろうか。

 昼間、街を歩いていると、とにかく仕事をしているタイ人が多いことに気がつく。たとえばショッピングモールや駅の入口には必ず金属探知機のゲートがあって、その確認のために警官や何かの係員がそばに立っている。かばんにはパソコン等が入っているから当然探知機は反応するけれど、係員はそのまま通してしまう。つまりあまりやる気はないが、とにかく仕事場としてそこにひとが充てがわれている。コンビニに行くと、必ずレジに3名は店員がいる。ジュースを売る屋台は多いが、飲み物の自動販売機はほとんど見かけない。調理場では木の杵と鉢で何かの香辛料をえっさえっさとすり潰している。このように、生産性向上や機械化や人件費抑制をあまり進めず、代わりに仕事をできるだけ多くのひとでちいさく分け合っている。

 いまここに3人いれば過不足なく回してゆける仕事場があったとする。日本では、機械を導入したり残業したりして、これを1人で回そうとする。それを請け負った1人は長時間労働で体を壊し、残り2人は失業状態が長引いて不満を募らせてゆく。

 タイではこの仕事場を5人で回す。必要な業務量に対して人数が過剰であるから、暇なときは話したり休んだりしている。給料は上昇しない。しかし失業者は出ない。タイの現在の失業率は1%だと望月先生に教えていただいた。

 日本では失業率の高さや労働環境の悪化が問題だと言うわりに、「AIの導入で10年以内に消滅する職業は何か」などと、ポストの減らし方ばかり模索している。資本家が省力化にやっきになるのはわかるとして、使われる側もそうした議論に加わっていつのまにかその流れを受忍しているのは、気づいてみるとこっけいなことだとおもう。

 自分がわずかに見た範囲でタイ人の労働観や労働市場の実情を簡単に判断することはできないけれども、さしあたり以上のようなイメージを持った。

 バンコクに入って(これを書いているいまは南部のパンガー県に移動したが)しばらく考えていたのは、「発展」とは何なのかということだった。タイは発展途上国developing countryだとされる。機械化、自動化、省力化が進むこと、それにより1人あたりのGDPや生産性が向上することは、なるほどdevelopmentに違いない。けれども、タイがその発展の末に、日本や他の「先進国」と同じかたちを取るようになるのか、それを目指しているのかわからない。とはいえ、このグローバリズムのなかでタイ独自の完成形のイメージが明確に保持され共有されているのでもないだろう。developのかたちはおそらく一つの決まったものではなく、つねに主体の伝統と変転する客体の間の混乱のなかでさまざまなすがたをそのときどきに実現しながら進んでゆく。

(2017年1月27日, 高原)

Day3 ちょっとふしぎな夢みたの

[写真]日本食

 ごはんをどこで食べるか。何を食べるか。通りをうろうろしていると、(A)地元の屋台や食堂、(B)間接照明を撒き散らしている高級レストラン、(C)「地鶏」「居酒屋」など漢字で看板を出している日本料理店が目に入る。

 欧米圏からの観光客やビジネスマンは、ほとんどBのレストランに行っているような印象がある。屋台や食堂にはほとんど見かけない。ヨーロッパ文化圏(とひとくくりにするのもアレだけど)の雰囲気とメニューをそのままタイに持ち込んだようなお店だけに出入りしているように思える。ようするに「スタバっぽさエリア」が街のあちこちに点在していて、欧米からの観光客やビジネスマンはそこに入ると一安心できるような仕組みになっている。
 じぶんもそうしたレストランやカフェに何度か入った。するとなるほど、そこはやはり日本でも馴染みのスタバっぽさ空間であって、眼への刺激が少ない。いいかんじのBGM、いいかんじの陽射し、いいかんじのインテリア。しかし店内を見回すとMac Bookを開いている白人だらけで、それに気づくとどことなく落ち着かなくなる。かれらと同じような仕方ではリラックスできない。日本で慣れ親しんだスタバっぽさは所詮借り物であったかと気づき卑屈になる。舶来品の雰囲気を疑わずにグローバリズムやらを論じていたが結局は葉っぱを頭に載せた化け損ないのキツネであったかと愕然とする。自分がもう少し繊細なら夏目漱石のようにノイローゼになっていたかもしれないけれど、根がガサツなので地元の屋台や食堂に行く。

 すると今度はメニューの全てが読めないし、どうやって注文すればよいのか、代金はいつ払えばよいのかもわからない。とりあえずわちゃわちゃ話しているタイ人の間でテーブルについて近くのひとの食べているお皿を店員に指差す。しばらくして出てきたお皿のにごったスープをスプーンでひとさじ飲むと、これが肉団子や魚のすり身の出汁と唐辛子の程よい辛味が複合してなんともいえず美味である。お腹に素直に染み入ってくる。かまぼこの切り身のようなものや、よくわからない豚肉のどこかの部位のかけらもはむはむ噛み締めていると地と海の滋養が穏やかに血中をめぐり始めるのを感じる。美味にはビザもパスポートも要らぬと再確認する。
 このように基本的に屋台や食堂で地元のひとに混じってテキトウに食べているとそれなりに気は楽なのだけれど、それでも自分は異邦人である。
 そこで第三の選択肢として、林立する日本食の料理店がある。自分は意地を張って日本語の看板が出ているお店には入らないことに決めたけれど、日本の商社等から駐在しているビジネスマンらがそうしたお店を頼るのも自然な流れなのだろうと思う。

 このように、ものを食べる場所の種類と、その客層がきわめて明確に分かれているような印象を持つ。欧米人は欧米人向けレストランへ、タイ人は地元の食堂・屋台へ、日本人は日本人向けのレストランへ(ただし日本食のお店はタイ人にも人気)。
 食べる場所だけでなく、街全体でそのような分離が成立しているように思える。いわば透明な、見えないレーンが何本かあって、欧米からの観光客はかれら専用のレーンに乗って移動し、日本人駐在員もかれら用のレーンに乗っている。中国人観光客用のレーン、日本人観光客用のレーンもあるだろう。それらのレーンはお互いに交わることが無い。そしてタイ人はどこにいるのか――レーンが有るところも無いところも、ここでは全ての空間がタイ人の場所のはずだけれど、そうしたレーンの上にいる限り、タイ人はそれらのレーンに油を差してくれる人としてしか現れてこない。そのようなレーンから降りてものごとを見てみたいと思うけれども、おそらく「レーンから降りたつもりになっている異邦人向けのレーン」が用意されていて、数ヶ月の滞在ではその特殊レーン上から「現地のリアルな姿」を目撃した気分を得て帰国するにすぎないのかもしれない。

(2017年1月24日, 高原)

Day2 注射針と裸足

[写真]街並み

 Sikkha Asia Foundationの吉田圭佑さんのところへご挨拶に伺う。シーカー財団は日本の曹洞宗のボランティア団体から発展した団体で、現在は現地NGOとしてクロントゥーイ・スラム地区で住民の支援活動、とくに教育に関する活動を行っている。

 高原のインターンシップ受け入れ先機関はBaan Than Namchai Foundationという。吉田さんは、このBTNC財団を高原に紹介・仲介してくださったのだった。バンコクについたらシーカー財団事務所にもぜひおいでなさいと連絡してくださっていた。

 宿泊先のホステルからシーカー財団の事務所まで、わりあい近かった。グーグルマップを見ながら40分ほど歩き、さほど迷わずに到着した。都心部から少しずつ離れてゆく。高速道路のそばに煤けた団地が立ち並んでいる。洗濯物と衛星放送アンテナがベランダにへばりついている。さらに進むと、低い建物が文字通りヒサシを接している区画に入る。なんかのお鍋ぐつぐつ、バイクの修理屋さん、ちいさな仏堂、犬がぽこぽこ歩いている。

 事務所で吉田さんと初めてお会いした。タイ人スタッフ、事務局長と会議中だった。会議が終わったあと、近所の食堂につれていってくださった。そうして話を少しずつ聞いてゆくうち、ここがいわゆるスラム地区であることをわたしは初めて知った。吉田さんとSikkha財団のミッションも住民の生活改善にある。

 スラムが「良くなる」とはどのような状態を指すのでしょうかと吉田さんにお聞きした。行政がそのように言うとき、しばしば立ち退きと再開発を意味する。それは都心の人間から見れば地区の「改良」であっても、そこに住んでいる人にとっては生活の破壊ともなる。

 むずかしい問題ですねえ、と吉田さんは説明してくださった。

 スラムの問題は何か。住民の居住環境が不安定であること、衛生環境が良くないこと、薬物が蔓延していること。

 居住環境が不安定であるとは、きちんとした賃貸契約が結ばれずに住民が住み着いている地区があるということを指す。スラム地区と一言で言うけれど、内部にはさまざまな区画がある。この食堂や事務所の近辺は過去にいちど再開発が入った区画で、住民は賃料を土地所有者である港湾当局に払っている。賃貸契約がある以上、住民の居住は法的に一定の保護を受けている。ところがここよりもっと環境の悪い区画もあり、そこの住民は家賃を払っていない。したがって立場もきわめて脆弱である。

 現在、行政はそうした地区を商業区画に再開発するプロジェクトを進めている。対象地区の住民は「40キロ離れた別地区への転居」「一時金の受取り」「再開発地区に建てられる高層住宅への入居」の三択を迫られている。遠方へ移住すると仕事ができない。高層住宅は新たに家賃を取られ、生活が維持できない。住民は近いうちに決断を迫られるらしい。

 一方で、衛生環境の悪さを考えるとやはりスラムは無くなったほうがいい、とも吉田さんは明確に言った。吉田さんがこのスラムで活動とフィールドワークを始めるきっかけになったのが、大学生のときに研究室の調査旅行でこのスラムを訪れたことだった。使用済みの注射器が針のついたまま捨てられている、そのそばを子供が裸足で遊んでいる。その光景を見て衝撃を受けた、と。注射器とは、薬物を打った注射器である。

 食堂の洗い場に目をやると、かなり濁った水面に食器がどぷんと沈められていた。あ、これはたしかにチョットコワイなとおもう。吉田さんや財団のスタッフはもっとクリティカルな場面にかかわっているはずで、でも全部聞きつくす時間が無い。

 ではスラムが無くなったら。いまのコミュニティでみんなあれこれ助け合いしてるような関係がいっぺんに無くなるだろう、それはそれでどこか惜しい、と吉田さんは付け加えた。(わたしは復興住宅のことをちょっと思い出した。)

 「でも」、「とはいえ」、「やはり」というように、逆接や譲歩や留保の接続詞が絶えない会話だった。臨床のひとだと感じた。おすすめのコーヒーのお店に連れて行ってくださって、さらに別の場所に案内してあげましょうというとき、事務所から電話がかかってきて、吉田さんは急いで仕事にもどった。バンコク最大のスラム街から、いただいたコーヒー(すごく冷たくて甘くておいしい)をちゅーちゅー飲みながら歩いて帰った。関空を離陸してまだ48時間経っていない。ふしぎな人生やなーとおもった。

(2017年1月24日, 高原)

Day 1 ポケットを空にして

 高架を走る空港連絡列車の窓から外を見る。まだ夜が明けきっていない。まだ都市部に入っていない。木々の緑の濃度におどろく。タイの第一印象は、この葉の緑だった。木々に主権がある、という直観をもった。建物同士の間隔は日本とあまり変わらないのだけれど、そのスキマを豊かな緑の樹木が埋め尽くしている。次いで、住宅の壁や屋根がさまざまな色で塗られていることに気づく。極彩色ではないけれど、色の配置が日本よりはるかに多様である。たまに水路がある。

 Phaya Thai駅からBTSという路線に乗り換える。高架を走る地下鉄のような電車。通勤通学客で混んでいる。

 BTSは各停である。中高層ビルの間を抜けてゆく。ちょうど、阪急が十三から梅田に入ってゆくときの車窓風景に似ている。Phrom Phong駅で降りる。高架駅舎を降りて地面に立つ。匂い、音、色、匂い、音、色。

 高架路線の真下が幹線道路で、大量のバイクと自動車がばたりりばたりりと走っている。屋台で何かを焼いている、ビニール袋に濁った色のスープをお玉でどしゃーっと注いでいるのが目に入る、なにか黄色めのフルーツが並べられている。顔の左側に屋台の煙がかかり、右側から排気ガスの渦が巻き込み、鼻からちかちかした匂いと音の粒子が流入してくる。汗が全身から噴き出すのがわかる。分厚い肌着を上下に着込んでいる。日本は寒波、こちらは初夏。湿度はあまり高くないが、水蒸気の分子ひとつずつが激しい熱量を持って自分の肌に衝突してくるような感覚がある。周辺の事物ひとつずつをはっきりと認識できず、五感に多彩モザイクが押し寄せてくる。

 スーツケースを引きながら、幹線道路沿いをのたのた歩く。手元のiPhoneでマップを確認して、ここらへんで道路を渡って右折しなくてはならないと判断する。しかし、道路を横断できない。バイクの列が途切れない。歩行者用の信号は無い。地元の人が微妙なタイミングで渡るのについてやっと渡る。

 Soi 26通りを歩んでゆく。交通量が多い。バイクの運転者はみなヘルメットをかぶっていない。若い女性はバイクの後部座席に横乗りしている。そして車もバイクも速い。
 
 狭い歩道をスーツケースを引きながら10分ほど歩く。ようやくバンコクでの宿泊先であるONEDAY Hostelを発見する。……車道の対岸に。車道はわずか二車線だが、とにかく自動車とバイクがひっきりなしに走っていて、とうてい横断できない。思い切って渡るか? しかしそのまま車に轢かれて一貫の終わりでは……? ここでわたしが死んだら関係各方面に他大なご迷惑がかかるのでは……? 記者会見に臨む志水先生と田川先生の姿が脳裏に浮かぶ。

 安全策を取ることにする。

 道路を渡らずにそのまま歩道を進み、渡りやすそうなところを探す。ホステルが遠ざかってゆく。クオ・バディス自分。しかし道幅は変わらない。しかし道が直角に折れ曲がっているところにつきあたり、ここでは車の速度がすこし落ちることを発見する。この流体力学的発見を手がかりに、なんとか道を横断することに成功する。そしてまた歩道を戻り、ホステルに到着する。
 
 フロントの女性に予約していた者であることを告げる。ほんとは14時チェックインだけど、あなたはめっちゃ疲れてるっぽいから特別に部屋に入っていて良いでしょうと言ってもらう。なるほどまだ午前9時すぎ。カードキーを受け取り、ついに部屋で肌着を取り替える。肌が呼吸を始める。

 1月16日の20時から、翌朝17日5時半ころまで、阪神淡路大震災の追悼の場にいた。17日午後早くに神戸の実家に戻り、翌18日0時40分、つまり17日の深夜に関西国際空港から離陸した。飛行時間は5時間46分。現地時間18日午前4時すぎにスワンナプーム空港に着陸。夕方、MBKセンターという商業施設のカフェに座っていて、24時間でここまで風景が変わるのかと呆然としていた。

 これからバンコクに一週間滞在し、その後タイ南部パンガー県に移動して3ヶ月弱のインターンシップを開始します。崔さんのジュネーブ、波田野さんのニュージーランド、小川さんのケニア、謝さんと宮前君のインドネシア、木場さんのサンフランシスコに続き、2期生最終便のインターンシップ活動となります。緑と祈りの国から、小さな旅行記をお届けします。

(2017年1月21日, 高原)

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